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  映像研究

トレンディー・ドラマとリアル・ハッキング

 
日課のように訪れる荻窪駅前の古書店の105円コーナーで先日「珍しい本があるのだなぁ」と思って取り上げたものの結局買わずに棚に戻したその本は、柿渋的なかんじに変色した古書らしい古書。確認こそしなかったけれども恐らくは昭和20〜30年代に発行されたかと思われるその本、次に行ったときにはすっかり売れてしまっていたその本こそは、小林多喜二の『蟹工船』です。


・そんなわけで空前の『蟹工船』ブームだ。ここ最近各種webを閲覧していて、『蟹工船』の文字を目にしない日はない。「空前の『蟹工船』ブーム」、このことを感覚的にちょっと面白いと思うのは、例えば「オンライン上の大型掲示板で呼びかけることによって、まったく相応しくない人を何だかのランキングにねじ込む」ようなことと若干似ているような気がするからだけれども、よく考えてみたならばそれはまったく違う種類のことだ。なぜならば『蟹工船』は「読むために買われている」のだから。


・しかし「『蟹工船』売れている!」という情報は溢れていても「『蟹工船』読みました!」という情報があまりない(ように思う/もちろん全くないというわけではないのですが/皆さん労働の合間に少しずつ読んでいるのでしょうか)、ということを考えると、もしかするとこのブームは「500円程度で『蟹工船』の文庫本を買う」という自体に意味があるという、ワン・コイン/クリック的な、あるいはリアル・ハッキング的な、そういった間違った使い方をされている可能性がまったくないとも言いきれないわけで(極端な場合「一斉に買って、読まずに捨てる」)、個人的にはどちらかというとそちらの方が面白いとか思ってしまうのは不謹慎なのでしょうか。



・しかし、あらゆる様々な人の意識や無意識が表れたり表れなかったりすることで起こった出来事が影響して、そして影響し合った結果、2008年の今この瞬間にどこかの会議室では「月9『蟹工船』」だとか「『蟹工船』映画化、総制作費10億」だとかいうプランについて楽しく真剣に話し合われているに違いない、と想像してみる。そしてそこでは「映画『蟹工船』は様々な方に観ていただきたいので、通常1800円のところを一定の収入以下のお客様は半額でご覧頂けます」というサーヴィスはどうだろうか、とか「この作品に関しては、昨今の労働をめぐる環境に配慮した結果、制作スタッフに一定以上の報酬を保証しております」というのもなかなか良いのではないか、といったように様々なことが(よくわからないけれどこういったことを「貧困ビジネス」とか言うのでしょうか?)話し合われるのだろう。


・そのように考えたならば、『蟹工船』に現代的な意義を見いだす的なトピックスはそれはそれとさせていただいて、考えるべきことは『蟹工船』を消費する(させられる)ことよりも、その作品のメッセージに忠実なかたちで『蟹工船」を機能させるために、あえて間違った「使い方」を考える、ということに可能性を考えた方が良いのではないかなと思ったりしつつも、これは『蟹工船』に限ったことではなく、一般的にトレンディーな事柄をどう転用させることで別のメッセージになりうるのか、という個人的な興味に関わってくることなのだけれども、一方で「何ですかそれ?読んだことないし知りません。蟹食べたいです。」というのもそれはそれであるべき対応だとかも思ったり思わなかったりする今日のこの頃。