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  映像研究

出来事、風景

 
・かなり前から「観なくちゃ」と思っていた(なぜなら自分はそれを観ているという前提で人と話をしてしまったことがあるから/しかしそれは見栄ではなく言い出せなかっただけ)ある意味因縁?の『コヤニスカッティ<完全盤>』をDVDで観る。小論文すら書かんという勢いでメモしつつ観ていたのだけれども、視覚的な表現と「メッセージ」との関係性について、これほど自分が今考えるべきことにフィットする作品もそうそうないだろうと思う(DVDに特典映像で入っていたインタビューも見て、そこでの主張にもすっかり納得がいってしまったのだ)。


・こんなことを考える。ある状況「現代/現実」そのものを描写しようとするときには「テーマ/『』」という前提から離れることが考えられる。それは(ひとつの手法として)そのような表現の手つきから「テーマ/『』」という前提を相対化することで(本来の意味での/限定された文脈での)政治的なメッセージを生み出す、ということがあるのだろうけど、それとはまた違ったレベルで、本当に今、この「現代/現実」を表現する上で、そこで「現代/現実」と呼ばれるものを観察/検証したときに、それを構成するあらゆる要素の繋がりこそを前提としなければ、そもそも何ごとも表現することができないから、という必然性があるのだということに気がつく。そういう意味で『コヤニスカッツィ』的な方法論?は今、この時に(アル・ゴアとかよりも)必要であるべきだし、有効であって欲しいなぁ、とそんなことを考える。


・あるいはある遠くの出来事について、例えば今この時にいとうせいこうという人がウェブからメッセージを発している。それについて(とくに忙しくもない自分は)ビルマだかミャンマーだかについても調べて考えてみたいと思っていて、それは色々と思うところがあるからなのだけれど、しかしとりあえずこのアクションに関して「アンダーカバー」のTシャツが『通販生活』で売られるかもしれないというだけで、それがとても変でなんか面白いから、ということで反応しているだけでもあって、しかしそういうひっかかりとかもそれはそれで「(現代的な)要素の繋がり」とか、そういう風に言えないこともないと思う。