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  映像研究

風邪を引く

・201910180947。風邪を引く。いつでも風邪の引き方で大人になったことを思う。わかりやすく熱が出ない。喉が痛くなり倦怠感に捕らえられ最後は咳が残る。子どの頃の風邪は確かに一瞬の自己治癒のプロセスであったと野口さんの本を読んで思う。そして今はなるべく薬を飲まずに、体を温めて熱が出れば(熱を出せば)しばらくは体が楽になることを面白いと感じながら、風邪が通り過ぎるのを待ちつつ、可能な限り「普通に」生活する。数日前やむを得ずタクシーに乗ってしまった時の座席の前のディスプレイに「お客様の年齢から判断して適切な映像を映します」というようなメッセージが映し出されて、世にも恐ろしいと思ったが、しばらくして映し出されたのが有吉さんというタレントが出演している風邪薬のCMで、映像は「絶対に休めない人へ」というような恐ろしいことを笑顔で語りかけ、しかもそれはまったく不必要に3回ほど繰り返し再生されたのだから、あのCMが原因で風邪をひいたのではないかと本気で思っている。ワンメーターの距離を移動することで、数百円を支払い、外見をスキャンされ、風邪薬のCMを繰り返し見せられるシステムとはいったいなんなのだろうか。その風邪薬の名称は覚えていないし風邪薬は買わないし飲まない。プンクトゥム的にいえば、有吉さんという人の蝶ネクタイだけが記憶されている。

 

・そんな消費と労働とテクノロジーのシステムに対する呪いはそれとして、いまは単に自分のやるべきことを進めなければいけない。そういえば少し前に家族と「作品を購入すること」について話した。当たり前だが絵画は一点しかなくて、版画や写真はエディションがつけてあることが多い。写真のエディションに関しては(自分はそうした判断をしたことがないので想像だけれども)誰もが微妙な後ろ暗さを感じているのではないかと思われる。「なぜ大量のコピーが可能なのにも関わらずしないのか」という問いかけに答えようとするならば、紙幣に似たものとしての作品を考えずにいられない。あるいは国営の版画専門工房としての造幣局の存在を考えずにいられない。20世紀以降の美術ではそうしたシステムに対して何らかのコメント(あるいはアクション)を残すことがほとんど通過儀礼のようになっているのではないか。しかしそれはそれとして、作品の購入に興味があり、そういえば少し前と比べてお金自体に対しても興味があり、あるいは土地を持つことやそこに家を建てることにも少なからず興味があり、なるほどこういう思考のもう二三歩先には株式投資ビットコイン?的な非物質的な貨幣をあれこれすることについての興味があるのだろうことが想像される。

 

・職場で作品を選び賞を授ける仕事。どんなにささやかなイベントであれ、こういう判断には慎重でありたいと思う。さらに500円以内で景品を購入するのも仕事。しかしそもそも「500円以内で景品を」と言われて、500円以内で景品らしいものが購入できると考えているのは昭和の人の発想なのではないかとも思うが、ひとまず職場の近くのミュージアムショップに行き唯一500円以内で購入できる300円のメモパッドを手に取って考える。これにいったいどのようなメッセージを読み取ってもらいたいのかわからず断念。考えた末に思い立って近くの古本屋に行き、200円で岩波文庫の青いシリーズのベルクソン『笑い』を購入。文庫本は安くて持ち運びやすく長く楽しめるから良いと思う。読んだつもりでいたけれどもパラパラしてみて、あらためて面白そうだった。言葉と出会ってもらいたいというメッセージがある。つまずくように、自分で選んだのではない言葉と出会って、何らかの感情が動けば良いと思う。それは自分が持っている唯一のメッセージかもしれない。物にメッセージを込める仕事。

イベントの終わり

・201910151419。中央図書館にて。台風が消えて連休の業務のイベントを何とか乗り切り今日。午前中は送るべきメール数件を送り衣替えをしていたら時間が消えた。風邪をひいたかもしれない。次から次へと新たなタスクが波のように寄せる。その中で継続すること。気がつけば2019年も残り2ヶ月と半分になってしまったという当たり前の事実が恐ろしい。そして夏以来久しぶりに言葉を失う状態がある。音楽を聴いたり布に触ったりすることで何とか気力を取り戻す。こういうときに文字起こし作業は特に考えずともテキストが淡々と書き進められる(書いているように錯覚する)という意味で健康上よい。

想像

・201910131120。職場の近くのコーヒーショップにて。濁流になった多摩川を渡り眺めながら職場の最寄り駅まで来てみた。晴れていて気温が高い。比較的風が強い。大きな出来事があった翌日に視界が輝いて見えるのはなぜなのか。

 

・昨日は「災害に備える」一日を過ごす。午前は妻の実家で鉢植えなど運ぶ。帰りのコンビエンスストアで棚の様子など見る。確かにパンと水が欠品していた。新聞を買う。自宅のベランダの物を家の中へ入れて、入れるのが難しいものは可能な限り固定する。「飛来した物によって窓ガラスが割れる」ことを想像して、窓ガラスの全面に銀マットや布を貼る。「もしも窓ガラスが割れたならばどうなるのだろう」と初めて想像した。寝室が雨ざらしになったならば、デスクのある作業部屋で寝ることを想像する。停電することを想像してエネループ的な電池をすべて充電する。停電したならば家のインターネットは使用できないので、携帯電話のテザリングでどれくらいの時間インターネットに接続できるのか想像する。災害に備えることは想像することなのだと気付いた。日々の生活の中ではしない種類の想像をする。

 

・幸いにも自分の家は停電しなかったのだから、夜半まで各地の状況を調べ見る。川について調べる。家の近くの分水路について知る。出来事が起きて初めてインフラが意識されることも、それはやはり震災の時の思考と似ている。友人とオンラインで会話。お互いを気づかう。そのことで安心する。そういった一連の思考と、朝が来て視界が輝いて見えることのあいだには何か関係があるようにも思う。

 

・何か出来事が起こると政治的な陣営の攻撃の方向も顕在化する。端的に言って「叩きたかったものを叩く」。必要な批判もあるが不用意な発言も紛れているのだと思う。注意深くなる。そして必要な情報と叩き合う発言の隙間に「この流れによって見えなくなっているがその裏ではこのような事態が進行しています」という種類の発言がある。一段階メタな位置からのしかしそれも一種の「叩きたかったものを叩く」発言のバリエーションでもある。本当になにが起こっているのだろうかと思い、自分の生活のこととは違うことも想像する。

 

・何かが起こると、否応なく「自分が本当に何を大切だと考えているのか」が明らかになる。答えのようなものが出されたと思うことには注意深くあるべきだが、思考を深める手がかりのようなものが、目の前に差し出されたように感じる。自然の出来事に対して、それを精神的なものとして読むことでもなく、人間の営みと完全に切り離して達観するのでもなく、見ること、識ることは可能かと考える。風景を見ることについて考えている。

隙間の日記

・201910111506。業務に行く前の少しの空いた時間に駅前のコーヒーショップで作業。「予定を立てること・予定が崩れたら立て直すこと」という当たり前の、しかし最も困難なことを試みる10月半ば。いまやっている作業を10/15までに終わらせる。喜んで良いことではないが、明日は台風もあり缶詰になる予定。そのように考えている人は多いように思う。外出せずにできる作業を進める一日。ベランダに出している鉢植えや物干し竿を家の中に入れてみた。

 

小沢健二『彗星』を24:00にダウンロードして、家で作業しながら、また移動中に20回くらい聴く。良いとか良くないとか好きとかそうでもないとかでなく、引っかかるポイントから何かを考えてしまう。歌も曲の構成もすべてが食い気味?で次の音、言葉が被さってくるようで、ともかくエモーショナル。しかしメロディは今時の合唱曲のようであるとも思う。「2000年代を嘘が覆い・イメージの偽装が横行する・みんな一緒に騙される 笑」が歌詞であるということはどういうことか。「笑」は「わらえ」と歌われる発見。そして「だけど幻想はいつも崩れる・真実はだんだんと勝利する・時間ちょっとかかってもね」が被ってくるときの喚起力。確かに一瞬、自分にとっての1995年、2000年代を思い出した。個人的な記憶を想起させるポップミュージックとは何か。

 

・10月中にいまの作業をひと段落して、次の展開(書くこと)に進むのが目標。忘れてしまうから書いておく。中断。

あいちトリエンナーレから

・201910091744。中央図書館。朝からフランス語の授業へ出て今日は神保町から直帰。そのままリュックの荷物を一部入れ替えて車で図書館へ。おそらくは先月の18日以来だから半月以上ぶり。その間いろいろな場所で時間を見つけては作業を進めているがなかなか思うように進んでいない。だから今日は日記を書かずに作業へ突入するところであるのだけれども。

 

・昨日は豊田市美術館周辺を昼まで見て、誰もがおすすめしてくれた喜楽亭ホ-・ツーニェンをやや端折り気味に早足で鑑賞。17:00までの名古屋市図書館、18:00までの愛知芸術センターを駆け抜けて(当然のように表現の不自由展・その後を鑑賞できるはずもなく)20:00ぎりぎりまで円頓寺周辺のエリアを散策。最後は疲れ果ててタクシーで名古屋駅。ビールと弁当を購入して乗車。弁当、飲酒、睡眠、到着。携帯電話の万歩計機能によれば26,000歩、歩いていた。

 

・いくつかの作品について書いておきたい、あるいは誰かと直接話をしたいと思うような作品がいくつかあった。とりわけ2月に『可傷的な歴史』を鑑賞していたこともあり、田中功起の展示が見られたことは、このタイミングで幸運だったのだと思う。先行して鑑賞して話をしてくれた友人のアングルに促されるている部分もあるが、複数の作品が、2019年の複数のドキュメントであるように、鑑賞の記録もまた、鑑賞した人それぞれの2019年のドキュメントになるのかもしれない。「確かに2019年とはこのようであるかもしれない」と思った。中断。