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  映像研究

もしも2月が終わるならば

 
・もしも2月が終わるならば、もちろんその続きで3月になるだろう。時間は続いている。この前横浜に行って演劇が見られなかった日に、しょうがないからぶらぶらしていて某大型古書チェーン店にて宮沢章夫という人の文庫本を購入した。これ同じ本持ってたなと思いつつ、電車の中でちょうどよい感じのエッセイ的な本を読みたいと思ったから購入した。そしてその中に、人はいつでも2月になると「今月は28日までである」ということを、さも新鮮なことのように言葉にしてしまうというようなことが書いてあって、その部分を読みつつ夜のJR横浜線を北上しながら「そうなのか」と思っていたのだけれども、本当にそうだった。2月は28日までだった。たった2〜3日だけれども、このあっさり終わる感じは、ちょっと面白い。そしてちょっと困る。そしてはっとしていると3月になる。


・もしも3月になったならば、引っ越しをする。多くの人が3月に引っ越しをする。10月から1月までのゆるゆるとした『引っ越しの練習』という制作を通じて(結構本当に)「引っ越し」とか「人がある場所に住むということ」について、考えたり、想像したり、していたのだけれども、いよいよ練習の後には本番が来る。引っ越しの本番。しかし例えば不動産屋さんに行って引っ越す旨を伝えたならば「では、お部屋はいつ引き渡しますか?」と聞かれて、それはもちろん聞かれないはずがないのだけれども、一瞬「え?引き渡すんですか?」と聞き返しそうになるような気持ちがある。具体的な日にちなんて考えもしなかった引っ越し。でも確実に近づいてくる引っ越し。「この引っ越しは完全に自分の望むことである。」という気持ちがある。だからそのことは楽しい。だけれどもそのことと同様に「気がついたら引っ越している。」という気持ちもある。それは好きな時に好きなところに行く自由なライフスタイル、ということとは少し(全然)違う。場所と時間をめぐって不思議な気持ちでいる。気持ちのことについて書いてしまった。


・気持ちのことではなく植物のことについて。今住んでいる住宅の庭部分には「たらの木」が植えてある。あれは、たしか、そう、もう4年前の春に、冗談のように幼木を植えてみたならば、見事なくらいに背を伸ばした。見事に「木のようなもの」になった。そのことを考えると切ない気持ちになる。気持ちの話ではなかった。さて、その、たらの木は引っ越す時にどうしたらよいのか。切るべきか、残すべきか、「切りますか?」と尋ねるべきか、大家さんに任せるべきか、「たらの芽食べられますよ」とプレゼンするべきか、そもそも勝手に植えてこんなに育ったことが少し気まずい。しかしあらゆる生命は、例えばこのたらの木のように、思いもよらない場所で、思いもよらず生を受けて、思いもよらず生きるのだった。あらゆる物や事から生命について考えることだってできるだろう。今は「たらの木」のことだった。どうしよう。こんな時には四角い仁鶴がまーるく納めたら良いのかもしれない。


・そして同時に現在はフェスティヴァルの準備をしている。4月の第2週目の土日、13日と14日は、色々な準備をして、工作をして、画策をして、どうにか多くの人に里山の小学校までたどり着いて欲しいと思う。全く自分にとってだけのテーマ(心持ち)として「春という季節についてどのように掘り下げて考えることができるか」という言葉にしてもよくわからない気持ちがあるけれども、春の不思議さを、春の穏やかさを、春の暴力性を、春の神秘的な感じを、言葉にしたい。そして空間にしたい。例えば冬眠をする動物は(視覚的なイメージは「熊」)どのような気持ちで目覚めるのか。穴のようなところから這い出してきてどういう景色を見るのか。「お腹減ったな」と思うのか。「よし、今年度もひとつ頑張ろう」と思うのか。そして植物はどういう感じで蕾を膨らませるのか。まるで枯れたようになっている細い枝や、冷たく固い土の奥に、どういう力を隠していて、その力がどのように吸い上げられているのだろうか。それともそんな風な断片的な記述は無意味で、本当に「ただ」「育って」いるような感じなのか。


・去年と同じような季節に、同じような形や色が現われる。実際そのことは、時間を線的に考えないのならば、「同じようなこと」ではなくて「同じこと」なのかもしれない。そしてそれは「繰り返している」のではなくて「つねに/いつも/初めて」なのかもしれない。だけれどもやっぱり木は伸びている。根を伸ばしている。あるいは腐っている。停滞も撤退もあり得ない。進行している。進行しているがしかしそれは線の上を進んでいることとも違うかもしれない。気持ちや考えについて思うことは、例えば「それ10年前に流行ったよね」というようなことは本当にどうだって良いということだ。「そういうことは大体大学生くらいで通り過ぎてもらいたいな」というようなこともまたどうだって良いということだ。「どうだって良い」ということは「どのようであっても良い」ということで、それは「どのようなタイミングであっても/その人にとってしっくりときたときに/しっくりときたことを/ただやる」という意味において、あらゆる事は進行し続けているということだ。定年退職後にふと「あ、今反抗期かもしれない」と思うような人は良い。あるいは本当はそんな人しかいない。色々な人がいる。


・春だった。暦の上ではもう春だった。この「暦の上」というのが、身体的な感覚からすると相当に「早く」感じる。単純にまだ寒い。「暦の上」は「トレンディー」ということなのか。「ファッション・リーダー」ということなのか。そういえばショップ店員の人とかはもうすでに「素足にローファー」だったりする。あるいは「膝上の半ズボン」だったりもする。あの人たちは「暦の上」で生きているのか。


・春についてどれほどでも考えることが/書くことができる。気がつけば四半世紀以上に渡って学校の新学期に関わってきていると、あの4月の、春特有の「よそよそしい感じ」というのが、ほとんど具体的なかたちを持つほどにイメージできるようになってきたけれども、そしてその「よそよそしさ」ということから春という季節を大変だと、何なら少し苦手だと思っていたけれども、むしろ最近わりと良いかもしれない。あの「よそよそしい感じ」もそれはそれで面白いかもしれない。そう思えるようになった。クラス替えくらいならばまだしも新しく学校に入学する人たちがいる。あるいは新しい環境で働く人たちもいるだろう。頑張ってください&頑張りましょう。そして移動する人がいる。「東京に住む」ということを選ぶ人がいて、「東京ではない場所へ移る」ということを選ぶ人がいるだろう。不動産屋さんの扉を開く。部屋の不要と思われる物を捨てる。地図と時計を見る。電車や飛行機に乗って人は移動する。


・あらゆる生命が冬のあいだ閉じ込めていたような色やかたちを現すように、現われる。存在しなかったものが存在する。存在しなかった関係が生まれる。点と点の間に引かれていなかった線が引かれる。そして話されなかった言葉が話される。震えることのなかった空気が震えたならば、喉の奥から声を絞り出して自己紹介をする。簡単な自己紹介。名前。出身。趣味。今日の服装。よろしくお願いします。それは植物が蕾を付けることに似ている。なぜその蕾は膨らむのか。なぜ他のものと同じでもあり違ってもいる色を持っているのか。そういう問いは空間全体に見えないままに潜みながら、しかしその場所では誰もがおのおの好きなことをして遊んでいる。誰もが4月の「よそよそしい感じ」をすぐに忘れてしまうのかもしれない。あっという間に現われたならば光の速度で言葉を話す人がいる。全然地味そうに見えて二学期くらいから徐々に面白さを発揮してくるような人もいる。最後まであんまり喋らなかったけど文集を読んだらめちゃくちゃ面白いことを考えてたじゃないかというような人もいる。途中で転入してくる人もいる。色々な人がいる。