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  映像研究

自由な研究

 
・7月が終わる。7月最後の日の朝。いつもの夏よりも少しだけ慌ただしいことが予想される夏の日の朝。自由研究について考える。自由研究。全く記憶がない。小学校5年生のときに父親の勧めで(エジプトに旅行に行ったから)「パピルスについて〜紙の始まり〜」という研究をしたことだけ覚えている。何をしただろう。自由研究。


・自由研究は自由な研究なのだけから何を研究しても良いのだけれども、提出する期限だけは全く自由ではない。9月1日には結果を報告しなければいけない。だから例えば「革製品がどのように味が出てくるのか15年間観察する」というのは夏休みの自由研究としてはtoomuchだと思う。だけれども途中経過でも良いのだ。あることを始めてみて(あるいはもう既にそれ以前から続けていて)その中間報告(ここまではわかりました)を提出することでも本当は良かったのだと思う。しかし子どもには「途中経過」とか「中間報告」というおしゃれな発想はない。子どもは完成した結果がすべてだと思っている。(時々そう思っていない子どももいるだろうけれども、そういう子は大抵子どもの中ではあまり存在感を示していないような気がする。いずれぐいぐい来るのだろうな。)本当はプロセスだけがあることを、いつか誰もが知る。


・それで今。自由な研究は許されている。どんなに恐ろしい歴史や、どんなに残酷な物語を研究しても、それは自由だ。地味な研究も、派手な研究もある。一見して役に立つような研究もあれば、一見して全く役に立たないような研究もある。それも自由だ。しかも自由研究はお金をもらっていないので(広い意味でのスポンサーはいるかもしれないですけれども)どういう結果が出ても、それは仕方がない。面白いかと思って研究してみたのですが、あんまり面白くなかったので、やめます。という自由もあるけれども、せっかく始めてみたのだから、そのすぐ隣にある別の事柄に興味を持ったりするのも良い。色々なことは繋がっている。そして夏は意外と長い。