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  映像研究

イベントの終わり

・201910151419。中央図書館にて。台風が消えて連休の業務のイベントを何とか乗り切り今日。午前中は送るべきメール数件を送り衣替えをしていたら時間が消えた。風邪をひいたかもしれない。次から次へと新たなタスクが波のように寄せる。その中で継続すること。気がつけば2019年も残り2ヶ月と半分になってしまったという当たり前の事実が恐ろしい。そして夏以来久しぶりに言葉を失う状態がある。音楽を聴いたり布に触ったりすることで何とか気力を取り戻す。こういうときに文字起こし作業は特に考えずともテキストが淡々と書き進められる(書いているように錯覚する)という意味で健康上よい。

想像

・201910131120。職場の近くのコーヒーショップにて。濁流になった多摩川を渡り眺めながら職場の最寄り駅まで来てみた。晴れていて気温が高い。比較的風が強い。大きな出来事があった翌日に視界が輝いて見えるのはなぜなのか。

 

・昨日は「災害に備える」一日を過ごす。午前は妻の実家で鉢植えなど運ぶ。帰りのコンビエンスストアで棚の様子など見る。確かにパンと水が欠品していた。新聞を買う。自宅のベランダの物を家の中へ入れて、入れるのが難しいものは可能な限り固定する。「飛来した物によって窓ガラスが割れる」ことを想像して、窓ガラスの全面に銀マットや布を貼る。「もしも窓ガラスが割れたならばどうなるのだろう」と初めて想像した。寝室が雨ざらしになったならば、デスクのある作業部屋で寝ることを想像する。停電することを想像してエネループ的な電池をすべて充電する。停電したならば家のインターネットは使用できないので、携帯電話のテザリングでどれくらいの時間インターネットに接続できるのか想像する。災害に備えることは想像することなのだと気付いた。日々の生活の中ではしない種類の想像をする。

 

・幸いにも自分の家は停電しなかったのだから、夜半まで各地の状況を調べ見る。川について調べる。家の近くの分水路について知る。出来事が起きて初めてインフラが意識されることも、それはやはり震災の時の思考と似ている。友人とオンラインで会話。お互いを気づかう。そのことで安心する。そういった一連の思考と、朝が来て視界が輝いて見えることのあいだには何か関係があるようにも思う。

 

・何か出来事が起こると政治的な陣営の攻撃の方向も顕在化する。端的に言って「叩きたかったものを叩く」。必要な批判もあるが不用意な発言も紛れているのだと思う。注意深くなる。そして必要な情報と叩き合う発言の隙間に「この流れによって見えなくなっているがその裏ではこのような事態が進行しています」という種類の発言がある。一段階メタな位置からのしかしそれも一種の「叩きたかったものを叩く」発言のバリエーションでもある。本当になにが起こっているのだろうかと思い、自分の生活のこととは違うことも想像する。

 

・何かが起こると、否応なく「自分が本当に何を大切だと考えているのか」が明らかになる。答えのようなものが出されたと思うことには注意深くあるべきだが、思考を深める手がかりのようなものが、目の前に差し出されたように感じる。自然の出来事に対して、それを精神的なものとして読むことでもなく、人間の営みと完全に切り離して達観するのでもなく、見ること、識ることは可能かと考える。風景を見ることについて考えている。

隙間の日記

・201910111506。業務に行く前の少しの空いた時間に駅前のコーヒーショップで作業。「予定を立てること・予定が崩れたら立て直すこと」という当たり前の、しかし最も困難なことを試みる10月半ば。いまやっている作業を10/15までに終わらせる。喜んで良いことではないが、明日は台風もあり缶詰になる予定。そのように考えている人は多いように思う。外出せずにできる作業を進める一日。ベランダに出している鉢植えや物干し竿を家の中に入れてみた。

 

小沢健二『彗星』を24:00にダウンロードして、家で作業しながら、また移動中に20回くらい聴く。良いとか良くないとか好きとかそうでもないとかでなく、引っかかるポイントから何かを考えてしまう。歌も曲の構成もすべてが食い気味?で次の音、言葉が被さってくるようで、ともかくエモーショナル。しかしメロディは今時の合唱曲のようであるとも思う。「2000年代を嘘が覆い・イメージの偽装が横行する・みんな一緒に騙される 笑」が歌詞であるということはどういうことか。「笑」は「わらえ」と歌われる発見。そして「だけど幻想はいつも崩れる・真実はだんだんと勝利する・時間ちょっとかかってもね」が被ってくるときの喚起力。確かに一瞬、自分にとっての1995年、2000年代を思い出した。個人的な記憶を想起させるポップミュージックとは何か。

 

・10月中にいまの作業をひと段落して、次の展開(書くこと)に進むのが目標。忘れてしまうから書いておく。中断。

あいちトリエンナーレから

・201910091744。中央図書館。朝からフランス語の授業へ出て今日は神保町から直帰。そのままリュックの荷物を一部入れ替えて車で図書館へ。おそらくは先月の18日以来だから半月以上ぶり。その間いろいろな場所で時間を見つけては作業を進めているがなかなか思うように進んでいない。だから今日は日記を書かずに作業へ突入するところであるのだけれども。

 

・昨日は豊田市美術館周辺を昼まで見て、誰もがおすすめしてくれた喜楽亭ホ-・ツーニェンをやや端折り気味に早足で鑑賞。17:00までの名古屋市図書館、18:00までの愛知芸術センターを駆け抜けて(当然のように表現の不自由展・その後を鑑賞できるはずもなく)20:00ぎりぎりまで円頓寺周辺のエリアを散策。最後は疲れ果ててタクシーで名古屋駅。ビールと弁当を購入して乗車。弁当、飲酒、睡眠、到着。携帯電話の万歩計機能によれば26,000歩、歩いていた。

 

・いくつかの作品について書いておきたい、あるいは誰かと直接話をしたいと思うような作品がいくつかあった。とりわけ2月に『可傷的な歴史』を鑑賞していたこともあり、田中功起の展示が見られたことは、このタイミングで幸運だったのだと思う。先行して鑑賞して話をしてくれた友人のアングルに促されるている部分もあるが、複数の作品が、2019年の複数のドキュメントであるように、鑑賞の記録もまた、鑑賞した人それぞれの2019年のドキュメントになるのかもしれない。「確かに2019年とはこのようであるかもしれない」と思った。中断。

あいちトリエンナーレへ

・201910080822。スターバックスコーヒー松坂屋豊田店にて。昨日(今日未明)は24:45発の夜行バスに乗ってみた。ドキュメント72時間的にバスタの雰囲気を味わい尽くして乗車の瞬間に就寝。サービスエリアにも気がつかなかった。そういえば夜行バスに最後に乗ったのはいつだったかと思い出してみて、それは数年前に9月の連休に大阪にティルマンスを見に行ったときではないか。その時は家族と一緒だった。大阪についてすぐに喫茶店でモーニングだった。一方今は2019年の10月でコーヒーチェーンで備忘録を書いている。夜行バスに乗る記録。名古屋から豊田に移動して今。

 

・台風が来ている。まっすぐに東京に向かってきているような進路。昨日の夜に職場で連休のイベントをどうするべきか対策を講じる。大人たちが天気図を見ながら「天気は仕方ないですよ」と言う。

 

・あいちトリエンナーレは全面再開とのニュース。完全に偶然の業務と諸々の隙間だったが、よいタイミングだったのだろう。友人から連絡。「回れるだけ回ってみます」と返信してみて、豊田市美術館のオープンまでスターバックスで宿題。中断。