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  映像研究

緊張の分析

・後から書いておく記録。緊張が身体に現れる日。業務を遂行する上では現れないに越したことはないが、現れるべくして現れたとも思う。それは、言葉を話す業務で、言葉を話す行為がうまくできないこととして現れる。10年ほど前には多くあったが、もう自分の身には起こらないのではないかと思っていた。きっと自分の力を、緊張を技術でかばう能力を、過信していたのだと思う。けれどもうまく制御することができなかった。このように、うまくできなかった事実から、文字通りの反省をしながら、この前の一ヶ月を、この前の数年を、この生を振り返る日曜日の夜。

 

・春は気候も、制度的にも、変化の激しい季節だから最善の注意を払いながらと思っていたが、注意をもってしても、あるいは注意し続けることそれ自体が、心身に緊張を形成している、ということがある。そして「一般的に悪い事象」のみならず「一般的に良い事象」もまた精神的負荷になり得るということを、過去自他の諸々の事象から見て取り、多少は学び、それに注意をしてきた2023年の3月だった。そうだから、この春もまた、このまま泳ぎ続けて向こう岸まで一挙に届くかと思ったが、それほどに簡単ではなかったのか。

 

・慢性的でそれと意識されない緊張も考察の対象になるが、現れた緊張に関して考えれば、自分の場合大抵は、ある行為を「早く終わらせたい」と思っているときに起こるように思う。行為を味わい楽しんでいるときには、何も不調はない。しかしたとえば行為の中に「理解しきれていないこと」があり、自信を持って聴者に投げることができないときに、その行為自体を「早送り」してしまいたいような、精神の状態が形成される。けれども、時間も、身体も「早送り」はない。その引き裂かれのようなことが原因か。聴者の頷きやメモを取る動作は無言のリアクションだが、それを待てずに「早く終わらせよう」としている。一切のコミュニケーションがない会話は、よほどの強靭な精神でない限り話者にとって負荷となる。言葉にしてみれば、それはかなり普通のことだった。

 

・こうした状態を回避するために、あらかじめ、行為の前にその場に自分の存在を「馴染ませる」こと、たとえば発声練習のように「声掛け」することが有効だと知っていた。知っていたが、この日はそれさえも面倒と感じるほどに「早く終わらせたい」と思い、これまでもできていたことだからきっとどうにかなるだろう、という態勢だった。また「声掛け」を面倒と感じるような、小さな違和感や倦怠もあった。以上は少し反省すれば、理解できる。そして理解を総合すれば、結論として、全然良くなかった。

 

・とはいえそうした諸々は、まずもって人間である以上、ある程度仕方のないことでもあり、その「仕様」に立ち返りつつ、何事かを考えたり、行為するしかない、とも思う。

 

・では「早く終わらせたい」とは何か。それは、一週間ほど前に、自分が映った映像を見たことから、うっすらと考えていたことでもある。限定公開の学位授与式の動画を家族に見せられた際、壇上で学位記を受け取る自分の姿は、自分の認識としては、ゆっくりとお辞儀をして、ゆっくりと手を差し出して、ゆっくりと振り返り階段を降りている、というものだったが、映像に映る自分は、倍速再生のような動きをしていたことに驚いた。というか、過去の出来事から、そのような素早い動きは自分の「個性」と思いつつ、気をつけていればかなり違った動きをしていると思っていた。けれども実際には、状況にもよるのだろうが、そうではなかった、という事実を見た。その時も、きっと慣れない儀式に不安を感じて、楽しみ味わうことよりも、「早く終わらせたい」と思っていたのだろうか。

 

・「早く終わらせたい」は、一つの動作の速度の問題でもあるが、自分の場合は特に、動作と動作が区切られていない、ということもあるのでないかと思う。おかずを頬張りつつご飯をかきこみ液体で流し込むような行為が、ごく自然に為されている。一体それはどういうことなのか。あるいはまた、電車に乗っている時こそ本を読み、食事の時こそ映像を視聴し、車を運転している時こそ音楽を聴きたい。誰もがするような、そうした行為の「抱き合わせ」のような状態の背景には、一つの時間に、一つの身体が、一つの行為をするだけでは、コストパフォーマンスが悪いと思っているような節もある。そのことも今後の課題としてみたい。

 

・反省を中断して。明日からの数日には「何もしない」を実践することを思いながら就寝する。