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  映像研究

この熱

・202303031924。帰宅する京王線で書いても良い。春のはじまりはからだの内側の熱を感じる。「今日は昨日までと比べるとやや肌寒くこの時期らしい気温です」という予報を聞き、それを「寒い」と解釈して着込んで外出すれば、電車や職場で暑く感じる。水筒に注いだ熱いほうじ茶を殆ど飲まなかった。むしろからだはアイスコーヒーやアイスティーやアイスチャイを求めている。冷房の季節には飲まないからこの時期だけ。

 

・午前中に池袋の新文芸坐で、アニエス・ヴァルダ『冬の旅』を鑑賞。年明けから気になっていたがようやく観ることができた。このような映画をきっと数年前ならば、今のように見ることが出来なかった。不幸(と捉えられる状況)が映し出されることに苦しさだけを感じていたのではないか。それは今も感じる。だが苦しさだけではない考えも浮かぶ。夢中でありつつ、視点は移り変わりながら、映像を見ている。

 

・クリアな映像と感じる。視界に満ちるどのような映像も「柔らかく」、「暖かく」、「優しく」、つまり受け取りやすいように操作されていると思われる現在において、もちろん『冬の旅』の映像も、操作=演出されているのだけれども、それをまずもって「クリアである」と感じるのはなぜなのか。フランスの、1980年代の、おそらくは寒い季節と思われる場所の、場所を写した映像の感じ。鮮明さとも鮮やかさとも違う、クリアである、という感じ。時代も状況も違うが、『ケイコ 目を澄ませて』からは少しそれを感じた。この感じについて考えることもできそうと思う。

 

・昼食は水道橋の友人の店へ。調子に乗って大盛りのカレーを注文したらほんとうに大盛りだったからお腹いっぱい。満足して職場へ。夕方まで業務は年度末の「お楽しみ会」の相談。ビンゴの景品などを考える。これが業務なのか。

 

・中断。

 

・帰宅して夕食しながら、再び「小西康陽小西康陽を歌う」のアーカイブを最後まで視聴する。シンガーソングライターやバンドの曲には時代のスケッチのような側面があるが、作家とは異なるシンガーの曲は、もう少し違った意味での「記録」という意義があると思う。そしてそれを別の状況において作家が声に出して歌うことには、単に「セルフ・カバー」ということでは説明できない力がある。クラシックもポップスも同じ地平で音楽と言えるように思う。作る思考と演奏する行為が溢れる。

 

・MCで小倉優子『オンナノコ オトコノコ』を自身で歌う可能性について話していて、ああそれをぜひ聴きたい、と思う。あのような軽さの極限のような曲こそが、作家に歌われることで別の意味を生じる。あるいはシンガーの固有の響きから解放されて、話す言葉に近づく気がする。「この世で一番大切なことはやっぱりタイミング」という言葉は、きっと切なく、おそろしく、やさしく聴こえるような気がする。

 

・このような演奏の合間のMCは「昔の話」にならざるを得ない。「昔の話」と言えば、夏木マリ『ミュージシャン』の最初のフレーズでもある。人が言葉を語ることは、基本的には「昔の話」なのかもしれない。小西康陽の作った音楽を辿ることで、自分の生きた時代を振り返ることもできる。それを考えることもしたい。中断して。