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  映像研究

2022年の11月

・後から書いておく土曜日の記録。何らかの只中にいると感じている、その只中の感じを記録したいと思った。帰りの京王線では言葉が出ない。

 

・夜中に全身の強張りを感じたこともあり少し余裕を持って起きたならば、出掛けて大学の図書館へ。必要な図書2冊を借りて職場へ。途中一瞬だけルミネで冬の洋服を見る。見ることも必要。触りながら見る。試着はしない。

 

・職場で13:00から21:00までが消えた。未だ年内どころか11月の予定が定まりきっていない。自転車操業という言葉が浮かぶが、それはどのような意味の自転車だったか。職場の方と立ち話の中で「12月に入ったら『一体2022年とはなんだったのか』ということについて話しましょう。そうでないときっと数年したら2022年が記憶から完全に消えてしまうから」と言葉にして、自分が発した言葉によって、いまが何かの只中であることを確認した。

 

・同時にかつては「忘年会」というシステムがあったことも思い出す。忘れるための集いは、完全に忘れないようにするための集いでもあったのか。あるいは具体的な記憶は消えても蓄積される何かのための集い。

 

・本当は、いつも、つねに、もちろん、何かの只中であるけれども、人は時間の中にフレームを作る。作りたい。「かっこ」の中の『かっこ』のように、星の軌道から、季節のサイクルから、あるいは生死からは、何重にも人間化された時間の枠組みがある。それを仮構することで辛うじて継続している感じもある。物語ということか。