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  映像研究

飲酒

・後から書いておく記録。日曜日の通常業務。その前にエクセルシオールで20分だけ作業。20分ではWordを立ち上げて少し見返すことが精一杯だった。8:30から18:00までがさっと過ぎる。力を尽くした。18:00に建物の外に出る。まだ明るいが6月や7月の明るさではない。気温も高いが光の印象は真夏のものではない。夜の街へ。友人2人と西荻窪サレカマネで気をつけながら飲食。飲食と言うよりも飲酒と言う方が相応しい。気づけば3時間くらい色々な話をしていた。友人と飲食あるいは飲酒していて、その相手を、面白い、素晴らしい、讃えたい、と思う瞬間が何度もある。昨日もあった。最近特にそうした感じを持つことが多いことに気づいた。年齢にもよるのだろうか。会う機会が減ったことも影響しているのか。オンラインで話をしている時には「話をしている」と思うが、実際に会って話をすると「話をしている」のみならず「相手の存在を受け取っている」という感じがする。「何かを交換している」という感じもある。人と会って飲食あるいは飲酒すること自体について、その意義を考えてみることもできる。「物語」という言葉が鍵になるかもしれない。しかしそれは目下の課題とはまた別の領域の問題になるだろう。月末の葉山行きの計画も立てつつ、しかし次回の大きな集まりは年末になるだろうかという相談をする。最近は集まりと集まりの間に、おのおのの人生の出来事が加速的に展開されているという感じがある。時間は加速しないと思っている。しかしなぜ人の生は加速するように感じられるのか。自分の生と長く見知った年齢の近しい人たちの生はどのように結びついているのか。その結びつきと加速の感覚はどのように関係しているのか。今そんなことばかり考えてる(場合ではない)。