&

  映像研究

・202208112022。帰宅する京王線で書いてみる。8:30から20:00までが消滅した。あるいは焼失したように想像される。完全に自分の体力を過信して今週と来週のスケジュールを作成してしまった。そのことに初日に気づいて同僚に相談。諸々調整して今。辛うじて健康を維持しながら労働している。あと数日でプールサイドに触れる。

 

・山の日だった。祝日であることにより、朝の京王線が空いていて、それはお盆が近いせいもあるのだろうか。お盆のお盆らしさを感じることの少ない生活だが、少しだけそれを季節の変化として感じることがある。密集していたものが少しずつ離れて、生まれた空間に風が通り抜けていくようなイメージが浮かぶ。

 

・空いている京王線を最寄駅で下車していつものコーヒーチェーン店で出勤前に30分だけ作業を、と思うと、張り紙があり、人員不足のため休業とある。実際にどういうことなのかを確かめることはないが、それを感染症による軋みとして受け取る。確かにあらゆる場所に影響が及んでいる。感染者が増加するとは、日頃ほとんど意識されずに渡されているバトンリレーが途切れることでもあるのか。

 

・山の日に、少しだけ本気で山を想像する。7月初めの山と、7月後半の山と、8月前半の山と、8月後半の山は、すべて違う。それは当然のことなのだが都市に暮らすとその当然を忘れて、季節はカレンダーの日付(位置)でイメージするようになる。山は季節が早いから(山では皆トレンドを先取りする)、8月初めの山は少しだけ秋の感じがする。たとえばそれは2008年の8月初めの八ヶ岳だった。テントから顔を出して見る夜明け。気温は都市における冬だが感じるのは秋。確かな記憶。

 

・現実の2022年8月11日は西新宿のぼんやりした夏の中にいた。他者の言葉を聴き、しかしそれ以上に言葉を発して、また他者の書いた言葉を読む。概念を組み合わせることを楽しもうと呼びかけているのだろうか。楽しむことができれば、少し自由になれるかもしれないと誘惑しているのだろうか。

 

・西新宿のぼんやりした夏であっても、朝の光は透明な感じがする。ここは山だろうか。日本列島と呼ばれる土地が島であり同時に山でもあるならば、ここも山だろうか。昼休みには職場を出てオペラシティを散歩する。天井が高い空間を早足で進むと、マスクをしていても、多少呼吸がしやすいように思う。

 

f:id:MRTR:20220811205259j:image