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  映像研究

8月という広場または幻

・202208021604。「202208」と打ち込んで8月の到来を確認する。新しい季節にはいつでも、遠くまで来た、と思う。ここが現在。ここが先端。この熱気が立ち込める空気が2022年の8月なのだと思う。友人は先日のオンラインのミーティングの際に、「生きている間に、気候が変動したね」と言っていたけれども、振れ幅ではなく変動と認識される夏の暑さ。暑さの痛み。痛いと言う。比喩でなく焼けるようと言う。「不要不急の外出は控えてください」とアナウンスされる。ここが現在。浮かび上がって消える夏。

 

・昨日は午後から業務。業務は授業をするだけでなくイベントごとにも関わる。昨日は「祭りの準備」だった。隠語でも雰囲気でもなく文字通りの「祭りの準備」。ギャラリーの搬入。壁に絵を飾る。気づけばこうして文化祭の前日のような騒ぎばかりをしている。14:00から始めて23:00まで。去年の夏と同様に疲労が目に集中していることに気づく。よろよろと帰宅。帰宅と同時に日付が変わる。家族が野菜炒めを炒める直前まで準備してくれていた。感謝し食べて眠る。

 

・そして今日は午前に自宅で業務の小さな作業を終えて、午後は避暑のためにコーチャンフォーへ来た。論文の作業が2日途絶えてしまったから再開したいがWordを開けずこうして日記を書いている。

 

・昨日騒ぎ=業務が終わり同僚と帰宅しながら話をして、話の中で「関係の貧困」という言葉を聞く。そうした語を用いることがラベリングになることには慎重であるべきだが、特に自分よりも年齢が少ない人の生活において、自分が過ごした生活とは明らかに異なる環境がある。そしてその環境を困難と感じることがある。業務に限らず何かを考えるときにそのことを勘定に入れるようになった。あるいはそれは年齢に関わらず現代的な傾向とも言えるのか。誰もが多かれ少なかれ抱えていて育ててもいるようなものとは別の(?)「孤独」が突然公衆に噴出することもある。その極限を前に自分は何か言えることがあるだろうか。時々そう問う。すべてはケースバイケースだが、「徹底的に孤独であれ」も、「他者との繋がりを大切に」も、そのヴァリエーションとしてのあり得る発言のすべても、空疎に思えることがある。先週は業務の隙間にそうした無力を感じる場面がいくつかあった。

 

・自分が辛うじて試みる余地があるのは「聴く」ことだろうか。聴いていることを全身で表現することで、何かを少しだけやわらげることはできるだろうか。あるいは何かを少しだけ先送りにすることはできるだろうか。そう問う。「根本的な解決」はない。では何をしていることになるのか。それは対処だろうか。対処としての「先送り」なのか。そしてなぜ「先送りにする」のか。「先送りにする」のは、自分の目の前で決定的な出来事が起こることを避けているだけではないのか。時々そう問う。思考を中断して。

 

・外で作業するときには音楽を聴く。VIDEOTAPEMUSIC『Cocktail Moon』を聴いている。すべてを幻と感じるようなアルコールみたいな音楽で、しばし暑さに溶けることを試みても良い。

 


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