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  映像研究

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・休暇の期間の日曜日。参議院選挙の投票日だった。最近は日曜が業務であることが殆どで、そうでない日も当日の予定が見えないことが多かったから期日前投票していた。久しぶりに投票日当日に投票する。投票所である「近くの小学校」は、窓から見ればすぐ「そこ」だが、山道の中腹にあり徒歩ならば控えめに見積もっても20分はかかる。自転車で小学校の裏手まで乗り付けて歩く道を家族から教えて貰う。そして投票。体育館をぐるっと眺め小学校の体育館とはこんなに小さかっただろうかという感じ。いつも感じる。それは夏の夏らしい日が戻ってきたような眩しい正午過ぎだった。投票後に近所の名店「有の実」のとんかつ。帰宅して少し自分の作業。手につかず選挙が近いと政治家の来歴について調べてしまう。この人色々な党を渡り歩いているな、とか、この人このタイミングで地方から国政に乗り出したのだな、とか、この人とこの人は遠縁なのだな、とか、Wikipediaは何でも教えてくれるように思う。これも学びと言えるだろうか。しかしWikipediaが教えてくれないこともある。タイムラインをつるつるすれば檜垣立哉という人のTwitterを興味深く読む。自らが時代に規定された存在であるとの認識は説得力があり自分も時々そのことを思い出す。時代と共に場所による規定を明らかにした2000年代中盤の原武史という人の『滝山コミューン一九七四』という仕事もあった。かつてそのようなものを読みその後続に当たる自分の出自を考えてみたりもした。たとえばそうした仕事によって「リベラル」と呼ばれる運動や動向や姿勢は捉え直される必要があるのだろう。その上で、変化し続けているこの「今」に、何を為すべきかが問われていると思う。問われ続けていることを思い出す。自分が明確に思い出すのは選挙の前後と何かの表現に触れた瞬間だけかもしれない。しかしうっすらといつでも漂っている。自分の日常的なコミュニケーションの底に、主に「何をどこまで譲歩するか」という小さな葛藤として浮かぶ。20時開票のタイミングでは野村訓市のラジオを聴きながら夕食の準備。21時からはTBSラジオの開票速報をYoutubeで視聴する。自分が選挙区で投票した人は当選した。比例で投票した党は議席を減らした。並行して見たNHK出口調査によれば、東京選挙区の無党派での支持上位3人は「山添」「蓮舫」「山本」だと言う。しかしそれがそのまま反映されるわけでもない。予想できる結果だったが明日以降しばらくは色々と考えることになるだろう。大勢が見えた24時に就寝。