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  映像研究

写真なるもの

・202206092224。午後からの業務を終えて帰宅する京王線で書いても良い。気づくと完全に6月の中心付近にいた。あらゆるラジオのパーソナリティが言う「今年ももうすぐ半分が終わる」も噛み締めながら。加えて昼間が一番長い日も近づきつつある。まだ夏の前触れを感じていない。

 

・昨日はコロナ禍以来はじめてかもしれない、友人が家に遊びに来るイベント。段ボール3箱分のTシャツから6枚を、部屋いっぱいの本棚から8冊を連れ出して貰った。昼間に友人と家で話していると、無限に時間があるように感じられた10数年前の感じを思い出す。オンラインで話すこととも、飲食店で話すこととも異なる、自由さがあった。その後送りがてら更に友人と合流して飲食。

 

・そして今日。誕生日の友人に小さなギフトと昨年会った時に撮影した集合写真を送っていた。届いた報告のメッセージに「怖いくらい写真なるものが詰まっていました」というフレーズがあり、いまそのことを考えている。

 

・光が描いた像が定着されている。ただそれだけのものである写真は、ただそれだけのものであるからこそ、見る人の意識に留まる。じっと見ても写真は動くことがない。動かない写真の些末な断片をなぞるように見ることで、ここに存在したものはただ一度きりで、それはもう戻ることはないのだと思う。何度もその事実に立ち返る。

 

・そのような写真を一枚でも多く撮ることができるならば。