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  映像研究

無題

・後から書いておく記録。月曜日は休息日。そう言い訳して休む。少しの業務連絡と少しの作業準備以外は無為に過ごす。

 

・情報を振り切るように生活をしていても、ふと追い付かれることがある。

 

・著名な方の自死が続き、その実際は当然何も分からないが、ニュースサイトや各種のSNSのタイムラインにはそうした事象とそれに対するコメントが溢れる。検索することも憚られる(その検索のデータがそのようなニュースを求めている証左となるのだろうから)と思いながらも読み聞く。事象自体がタイムラインを覆う時にはそのタイムラインを追うことはしない(たいてい何かの最中だから追うことができない)けれども、このように一息ついた時には、そうした情報を眺めるように読み聞く。自分の心が穏やかである時には、少しだけ、死に引き寄せられた人たちのことを思う。想像するということでもなく、自分が見ることのない表情や、自分が聞くことのない声の調子があったという事実を思う。他の事象、たとえばウィルスに罹ることや、疾患が明らかになることと同じように、予防はできる。しかし絶対的に消し去ることはできない。生きて思考する限りにおいて。たとえば体系的な信仰を持たないままに、しかしいつでも生きる方を、続ける方を選択することは、その継続自体が(適切な表現が指し示せないがあえて言えば)「見事」であると思う。

 

・そしてそうしたことも含めて、ある人が生きたことは、後から言及することしかできない。たとえば「研究」もまたそうだろうか。過去の仕事を意味づける。語る。意味づける、語ることには敬意が必要、と本当に恥ずかしいことに自分はきっとつい最近気がついた。語ることは裁くことではない。人が人を裁くのは極限の事態。カジュアルに毎日繰り返す営みに埋め込まれて良いことではない。