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  映像研究

言葉とメロディ

・後から書いておく記憶。泥のような眠りから覚めた日曜日。業務の日曜日だったけれども今日は裏方だから少し気持ちが楽だった。業務前にエクセルシオールで少し作業。お昼を食べにいくついでにイタリアントマトでもう少し作業。書ける時間に書けることを書く。まずは伸ばしておいて後で切り揃えるという精神で17,000字くらいまで書けた。明日からの三日が勝負。

 

・帰宅して18:00。予約していた『矢船テツロー・ワンマンライブ「うた、ピアノ、ベース、ドラムス。」』をオンラインで視聴する。日曜日の夜のまだ明るい時間にお酒を飲みながら音楽を聴く自由がある。家族が今日掘った筍を食べることもできることに感謝しながら。

 

小西康陽プロデュースということで知ったが、矢船テツロー『うた、ピアノ、ベース、ドラムス。』は素晴らしかった。ピアノはもちろんだが特に歌が良い。良いけれどもその良さを説明することが難しい。アスリート的なヴォーカルではなく、話すことや考えることの延長に歌うことがあると感じられる、と言えるだろうか。歌の言葉がひとりの人間の輪郭と重なり合っている。『あまく危険な香り』『ろっかばいまいべいびい』などのカバーも粋だけれども、特に『会えない時はいつだって』という作詞作曲している歌が良かった。何よりも楽しそうに歌うところが良かった。リズムが良かった。

 

・幕間(?)の小西康陽=PIZZICATO ONEのパートもただ面白く且つ味わい深い。歌のある音楽を作る人は歳をとってまた違う(けれども同じでもある)自分として歌うことができて心底羨ましいと思う。テクストを演じるという一見不自由な中に無限の広さがある。たどたどしくピアノのでコードを弾きながら歌い、時折解説が挟まれる『東京は夜の七時』を聴いていて、ある曲があらゆる意匠や商業的な事情を剥がれて、言葉とメロディだけになることの凄みを感じた。「はやくあなたに会いたい」この部分を一番言いたかったのです、と話されたことが印象に残る。そしてこのタイミングで言葉を確認するように歌われる『戦争は終わった』も。

 

・いつかPIZZICATO ONEを生で聴きたい。そのときはできる限りのおしゃれをして。それまでは何度も『前夜』を聴くことになる。

 

・同時に小西さんは、自分がなりたかった音楽家像が矢船さんであると話されていて、そのことも忘れ難い。そしてそれは矢船さんがどのようなアレンジで演奏していても、つねに言葉とメロディそれ自体の強さを感じさせるということではないかと考えた。そして繰り返せば何よりも「楽しそう」であること。明るく、明るいがゆえに切ない、ということ。そのことの意味や価値がわかるようになった。

 

小西康陽の作る音楽はあまりにも複雑な意匠と事情に覆われている。ガジェットのように。かつてそれを取り去った小西康陽の言葉とメロディの力強さを語ったのは曽我部恵一という人だった(朧げな記憶)。そのような理解として存在する曽我部恵一『メッセージ・ソング』や、キリンジ『陽の当たる大通り』のような音楽が、新しく色々な場所で(夜に、お酒を飲みながら)演奏され、歌われ、聴かれるような世界であれば良いと思う。

 

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