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  映像研究

15年、12年、27年

・202203201828。帰宅する京王線で書いても良い。今日は一日業務。だがしかし多少でも自分の作業を進めたい、進めたいというか手放さずに継続したい、と考えて6:30に家を出て7:30に職場の最寄り駅のガストにinする。モーニングを食べながら小一時間作業。

 

・8:30から17:30までが一瞬で消える。なぜ業務の時間はこのように消滅するのか。少しの手応えと儚さを感じながら早めの帰路。今日は日曜日だった。

 

・3月20日に15年前の事を考える。完全に15年前は、2007年の3月20日ということになる。時間を円的に考えれば現在とぴったり重なり合うように感じる。線的に考えれば遠く霞んで見えるように想像される。しかし時間は円でも線でもないとも感じている。過去は単に消えた。あるいは時間は続いている。そういう思考を浮かばせながら現在がある。

 

・そのように感じながらも一方でその日付、3月20日という日付に強く執着するのは、1995年の3月20日が自分にとって特別な一日であることに遡る。あるいはこのように書き続けることによって、特別な日に「している」ことによる。それは中学校の卒業式で、地下鉄サリン事件の日だった。自分の内にも外(世界?)にも沸き立つ何かがあるように感じられた。あるいは、そう後から考えているだけだろうか。

 

・写真に写された自分の姿が複数残されている。しかし、もしも、あの日に一枚でも自分の意志で写真を写していたならば、それが何をどのように写した写真であっても、それは特別な写真になったのだけれども、という気持ちがある。しかしそういう事象(撮影)は無かった。あるいは友人の記念写真など、何気なくカメラを受け取りシャッターを押すこともあっただろうか。覚えていない。

 

・そうして1995年3月20日の事を考えながら、その12年後の2007年3月20日に戯れにオンラインに日記を書く事をしてみた。その続きに現在がある、と思えるのはデータが保存されて同じフォーマットに並列されることによる。そうして15年前は線的にも円的にも想像してみることができる。

 

・しかしこのように書きながら、あらためて27年前は遠く感じる。15年前に「12年前だ」と思うことと、現在「27年前だ」と思う感じは異なる。異なると感じるのは量的な問題ではなく(時間の長さ自体ではなく)、何らかの質的な問題なのではないかと(そう考える自分の側の質的な変化)考えている。有体に言って「何かを越えた」あるいは「折り返した」ということか。考えている。

 

 

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