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  映像研究

ひとつの黙祷

・202203111930。作業に限界を感じて一旦中断し日記を書いても良い。昨夜は記念日でスパークリングワインのボトル(小)など開けてしまったから今朝のスタートは少し遅れた。9:00過ぎに開始。11:00くらいまでに昨日までの作業部分を整える。休憩としてローストビーフを焼く。作業再開。11:30にパスタを茹でるために鍋に水を張り火にかけた記憶。12:00に昼食。昼食後に眠くなる前に眠くならなそうな動画を見ながら業務連絡3本。するっと送信できて良かった。13:30から作業再開。

 

・14:40にアラームをセットしていた。なぜか今日は朝から14:46に黙祷してみようと思った。MacBookの時刻を見れば14:45。目を閉じてむにゃむにゃする。目を開ければ14:47だった。色々な「311」を思い出そうとするが、むしろ想像は、色々な現在進行形の黙祷すべき出来事に向かった。この黙祷は「2011年3月11日14:46」に向けた黙祷のつもりだったが、揺れと津波原発の爆発とそれに伴う様々な出来事の先に現在の戦争もあるいは疫病さえあるように思えた。思ってしまう。祈りの対象は自由で、自分の意識を反映していた。

 

・もう四半世紀前どころか30年近く昔にリリースされた小沢健二天使たちのシーン』を聴き、十代半ばの頃には「神様を信じる強さを僕に」という部分の歌詞について「なぜ『神様を信じる』が『強さ』につながるのだろうか」という疑問を持ちながらしかし、きっとそのような「強さ」があることは予感できた。特定の信仰(?)を指すのではないということまでは読解できた。それを言語化できなかったけれども。それから1995年の一連のオウムの騒動を経て「神様を信じること」は、あるいはさらに拡大して「祈ること」は、「弱さ」と結び付けられることはあれども、「強さ」とどう繋がるのか。少なくとも自分はよくわからなくなり、同時に考えなくなったようにも思う。今そのようなことも思い出しながら聴く『天使たちのシーン』は黙祷のような曲だと思う。

 

・ひとつの、ひとりの、祈りからしか何も生まれない、というような思いが浮かぶ。否定ではなく。あらゆる創造は祈りから生まれる、と言ってみても良かった。あるいは「すべての『つくること』の中には『祈り』がある」と言ってみて、大上段に過ぎるけれども、本当でないわけでは無いと思った。何かをつくるときに、目の前に見えているものとは別の何かを思い描かなければつくれない。そのような今現に動いている事と思い描いている事の関係を指す言葉として「祈り」は比較的適切であるように思う。ひとつの電子メールでも、一食の料理でも、普通にそうした行為の内に「祈り」と呼んでも良さそうな性質があるかもしれなかった。

 

・そうした日常的な「祈り」と言えるような行為を凝縮したようなものとして黙祷があるかも知れなかった。

 

・祈ることができるようになって良かった、とある時以降思うようになった。

 

・「見ること」と「祈ること」については、また別に考えられそうだった。

 

・以上をぼやっと浮かべながら、後で余裕があったら書いておこうと思いつつ、目下の自分の「つくること」であるところの作業は15:00から19:00まで。途中魔の18:00があったが風呂を掃除したりストーブに灯油を継ぎ足したりなどして(SNSを見ない作戦)、休憩を挟みながら作業を続ける。Wordは62,441字と表示している。65,000字でゴールテープを切ることが目的だがこの数日が山場だと思う。明日には終わらせたいと祈りつつ(この祈りはあの「祈り」ではない)、ビスケットを食べスープを煮る。日記を書いて今日の作業を終わらせたならば明日に備える。

 

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