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  映像研究

月曜日から金曜日まで

・後から書いておく記録。作業をしていた一週間が終わる。月曜日から金曜日まで、集合住宅の郵便ポストを確認する以外は靴を履くこともなく、起きて、食べて、作業、食べて、休み、作業、食べて、少し作業して、寝る。そのような日を5日繰り返したならば少し進んだ。Wordには45,000字と表示されている。土日は部分的に出勤が必要になったから、このような5日間は本当に貴重だった。

 

・このような日を過ごすたびに、なんとかのひとつおぼえのように、「なぜこんなことが許されているのだろうか」と思うが、許されているのだとすればそれは偶然に違いなかった。ほかの人のことならば、そのような時間を持っていることを讃えたいとすら思うが、自分のことになると後ろ暗い気持ちを持つのはなぜか。作業をすることの困難のうち、数%はこの後ろ暗さとのせめぎ合いかもしれなかった。

 

空爆、という語がスマートフォンの画面に流れてくるのを、踏み避けるようにして、PCのスクリーンに向かっている。書く必要はないのだろうけれども、これが記録であるならば、このことを書かないことは過剰編集であるように思った。原発で火災が起こる、という速報的な情報に、文字通り肝を冷やす(という表現をはじめて使った)ことも間違いなくこの生活の一部だった。見えない、聞こえない距離の場所で、しかし現在進行形で起こっている出来事が、映像メディアを通じて知らされる。

 

・「焦点」について読んで、書いて、考えて、読み直し、また書いていた。「眼の焦点」と「レンズの焦点」を比較し、写真における「焦点」について書いている。この、私が見ているものを、写真という形にすることは、不可能なことだけれども、努力目標のようなことだとしても、なぜ、そのようなことを目指すのだろうか。そう思いながら書いている。

 

・作業の合間にぱらぱらと読んだ本の中に「睡眠は呼吸によるマッサージ」と書いてあり、確かに、と思う。見ることについて考えていると、見ることもまた、身体の活動の一部であることを感じるように思う。ほかの感覚や運動と切り離して「視覚は、」などと書けるはずはなかった。なぜ自分はそのようなことに気づかなかったのだろう、と思うが、気づかなかったわけではなく、実感することがなかったのだと思う。「視力」とか「乱視」とか、あるいは「色眼鏡」というようなことでもなく、いつかこの「見ること」をもう少しだけ理解することができるだろうか。

 

・その時に自分はどのような写真を撮るのだろうか。今そんなことばかり考えている。