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  映像研究

綱と人参

・後から書いておく記録。一月の、冬の、中心の日曜日。午前中は少しだけ家で作業して慌てて出掛ける。午後から夕方にかけては業務のイベント。13:30から21:30までが消滅した。例年同じようにやってくる業務の繁忙期のはじまりを告げる一日。出来ることはした。出来ないことは出来なかった。そう思いながら帰宅。夕食に餅を食べる。タイムフリーで野村訓市のラジオを聴きながら餅。ここが冬の中心であることを確認した。

 

・「綱渡り」という言葉を思いながら帰りの電車でこの先しばらく3週間くらいのことを考えていて、出来るならば綱は渡りたくない。想像の綱は20世紀前半のニューヨークの高層ビルの間の中空を横切っていて、「落ちると命を失う」というメッセージを発している。そんな綱を渡らずに済ませることができるならばそれが良い。他のイメージはないだろうかと想像するが綱のことばかり考えている。次々とやってくる出来事の方があり、それに対応していると時間は消滅し、景色は変わり、向こう側にいるのであろう。そう思いながら綱を張る。ほどけたり切れたりしないようにと準備をする。

 

・自分と周囲の人たちの心身の健康以外に願うことがない。あるいは疫病の行方に祈りを。

 

・業務の綱渡りと並行して書き進めることになっている論文は、現在25%くらいまで荒く書いてみた。引き続きの集中が必須。ふと、「自分で自分に人参をぶらさげるという方法があるのではないか」と考えて、イメージは綱から人参に移行する。論文だから一章進むごとに「何か本以外の欲しいもの」を買う、という案を思いつく。しかし「何か本以外の欲しいもの」を探す時間の捻出が難しい。オンラインで購入してサイズが合わず微妙な気持ちになることも避けたい。そう思いながら靴のことなど考えている。

 

・昨日卒業制作展の会場で会った、かつて学生と呼んでいた人たちとの会話の断片を思い出す。訊くべきかどうか迷って大抵うにゃうにゃと「春からどうするのですか」的な話題になるが、何人かの大学生は「決まってないです」ときっぱりとした口調で話してくれた。その声の感じが自分の内に残っている。それが自分の00年代前半であれば、また別の「決まってないです」のニュアンスを持っていたように思うが、どうなのだろうか。その一人ひとりにとって「決まっていない」未来はどのように想像されているのだろうか。祈りや願いが会話になっていたのだろうか。

 

・デスクトップのデータをハードディスクに移動する。冬の中心に目を凝らす。