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  映像研究

11月30日

・202111302241。昨日に続いて風呂場で半身浴しながら書いてみる。大抵のことは2回行う。2回行うと、大体納得する。あるいは飽きる。「2回」で生きている。これは性質の問題だろうか。

 

・別の話。20211130と打ち込んでみて、11月が終わることに悔しい思いを持つ一方で、一つの月が終わってくれることを有り難くも感じている。強制的に自分の作業の外側に区切りがあることは救いでもある。そのようにして一日も、ひと月も、一年も終わる。その予感が増し続けるこの11月という時間が区切れて、明日からは決定的な年末となる。

 

・生活の楽しみの一つは本屋に行くことだから、家で作業の数日を終えて業務で外出した際は、特に用事がなくともかならず最寄駅の書店(くまざわ)をぐるっと一周する。大抵雑誌コーナーで殆どの時間を過ごして、新刊の専門書など手に取りつつ、全く読まないであろう文芸の棚も。知らない固有名詞を浴びたくて。

 

・一年のうちの業務の繁忙期には、本当にただぐるっと一周するだけで、何も手に取らない。手に取る気力なく、しかし目から言葉とイメージを入れたい。そうして雑誌の表紙に書かれた言葉や映し出されたイメージから、たとえば、冬山、鍋料理、高校英語、日帰り旅行、シックスパック、素敵な食器やインテリア、など受け取り、しかし、そのすべてに対して「もうあと二ヶ月したら全部やりたい」と思うことしかできない。そういう季節がもうすぐ来る。

 

・加えて今年は自分の書く作業も並行しているから、見ること聞くことのすべてに対して「いつか」「また」「追って」「近々」という気持ちで生きている。しかしこうした、何かを待つような心理は、この時勢からも影響を受けているのか。禍が長く続くことで、何が日常だったのか、忘れてしまった。という、ことを何度も書いているであろうことも、忘れている。

 

・11月とともに切断する。積極的に。切断は忘却を生むのか。あるいは、そのような起源も行き先も分からない状況だからこそ、切断を求めるのか。