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  映像研究

あたまいたい

・20210828のことを後から思い出して書いておく。一日中「あたまいたい」と言っていたのではないか。頭が痛かった。昨晩数日ぶりにビールを数杯飲んだことによる二日酔いなのか。夜の間数日ぶりに冷房を付けずに寝てみた結果軽い熱中症的なものなのか。あるいは逆に冷房の弊害か。夏の業務がひと段落して疲れが出たのか。締切を抱えた状態の緊張によるのか。その複合か。いずれにせよ身体はサインを送ってくれる。それを受け取りながら「あたまいたい」と声に出す。

 

・午後からオンラインによる業務を夜まで。時世的に対面がオンラインに切り替わる可能性もあるのか。そのような予測を含めてこの一週間計画して実施してみた。オンラインだからこそ顔を見ることができる。空間を共有しているが見ることはできない状況と、空間を隔てた状態で見ることができる状況とは、どちらがより親密であり得るのか。一年半くらい前にはじめて直面した問いとまた向き合うことになった。

 

・このタイミングでAmazonプライムにて『大豆田とわ子と三人の元夫』が視聴できることを知り、周囲から二周半くらい遅れて見始める。3話まで。設定を見て大豆田とわ子が自分の年齢と変わらないという事実に驚きつつ(松たか子という人は少し上と思っていたから)、しかし一般的には40歳、というと、色々な出来事を経て今、という感じなのだろうか。キャラクターを表面的に描いているからこそ、一瞬見る表情に歴史を感じることも面白い。

 

・連続ドラマで描かれる「都会的な生活」を見ることも面白い。それを「トレンディ」と言ってみてしかし、すべての連続ドラマはトレンディドラマなのだろうか。軽薄、や、表層、と同義語と考えられる「トレンディ」は、現在の何かを反映している「コンテンポラリー」ということでもあるだろう。製作者の意図することもあれば、製作者の意図を超えて映してしまうこともあるのではないか。

 

・同時に「2021年とはこのような世界である」と言い切れないのは、当然それがコロナのない世界を描いていることによる。1話の冒頭で駅前を歩く人々は皆マスクをしていないが、遠く見切れるフォーカスの結ばない人々はマスクをしていることを気にしてしまった。カメラの周囲に或る世界がある。それを「虚構」と呼ぶのはあまりに単純すぎる。そしてもちろん「或る世界」を人は必要とする。「或る世界」は「もう一つの別の世界」ではない。「世界」という言葉が適切でないのか。

 

・夏の終わりを味わうことが足りない、と感じている。