&

  映像研究

断片

・後から思い出して書いておく。8月が終わろうとしているが猛烈な暑さがこのタイミングで帰ってきたという印象。今日は一日を家で過ごす。友人とのオンライン勉強会。本のある(エアコンのない扇風機しかない)部屋で過ごしたが危険を感じる暑さだったから、午後少し休憩を挟んで夕方からの業務の会議はエアコンのあるリビングに移動した。家族は熱中症気味で帰宅した。エアコン、扇風機、冷たい飲料、保冷剤、などを適切に使用して過ごす。気をつけながら。

 

・数日前に注文した高橋恭司『Midnigth Call』が届く。ハッセルブラッド1000Fで撮影されたという写真を見る。ページは上部だけ袋のように閉じられているから、破っても良いのだろうが、下から覗き込むように見る。それぞれの写真は写真家が「見たしるし」であるという印象を持つ。この数日、写真=見たしるし、ということは当然のことではない、ということについて考えていた。もちろん視覚と写真は異なる。その上でしかし、見ること/見たことを提示する方法として写真を考えること。

 

・写真はただでさえ、それを見るときにはいつでも、過去が提示されているものだから、ノスタルジーを喚起する。イメージの中でも特に。その写真=カメラで、過去に生きた人の墓石を撮影することはどういうことか。肉体から物質へ。物質からイメージへ。移る(映る?)ことに存在は薄まるような気もするが、イメージに刻まれることによって、この世界に散乱する。

 

・別の事。数日前にNHKオンデマンドで視聴した『今のうちに聞いておかないと一生後悔するよ』という番組が面白かった。レギュラー番組への道、ということはレギュラー番組では無いと思うのだけれども、ある人が親と対話(インタビュー)するという形式がまずは興味深く、且つその題材が「学生運動」ということだったから、60年と68年それぞれの現場にいた人が語る言葉を聞きたいと思った。

 

・語らえる内容それ自体も面白いがその語られる仕方の色々な部分に興味を惹かれる。たとえば話をする場所としてのリビングがすでに多くの情報を持っている。あるいはある男性の父親への呼称が「お父さん」でも「親父」でもなく「父」であることが興味深い。というか自分もそういえば父親のことを「父」と呼ぶことがあり、これは何かレフトな思想におけるリベラルの表現なのだろうかと考えたりもした。役割を演じている意識を忘れないでおくための方法なのかと。