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  映像研究

7月31日の朝

・202107310806。業務前に職場の最寄りのエクセルシオールにinして書いても良い。月末で土曜日。業務のタームの最終日。夏の業務全体の折り返し。チームも全員集合。本来ならば業務半分:打ち上げ半分(そこでの意見交換が有益だというエクスキューズ)くらいの気持ちで臨むべきところだが、情勢がそれを阻む。打ち上げられない世界。打ち上がらない世界。打ちもせず上りもしないのは何か。それがありうべき反省や互いの健闘を讃えあうことならば、その失われた「打ち」や「上げ」は別の何で、いつどのように代替すべきか。考える。

 

・ひとりで今振り返ってみれば、小さいけれども確実にうまくいっていないことが積み重なった一週間だった。反省、という言葉を書いてみて、しかし敢えて別の言葉で理解したくもある。学ぶことはある。修行が足りない。心と体が健康であれば余裕が生まれる。これは自分のこと。同時にチームのあり方はまた別に考えられる。あらゆる組織やチームは過渡的なものであるとして、しかし意識的にアップデートしていること、その計画的な変化自体をどのように共有できるのか。こういう問いはもっと掘り下げてみることができるのかもしれない。

 

・しかし明日からは別のことを考える。自分の研究のための時間がある。

 

・7月31日は小学校からの友人の誕生日で、毎年メールを送っている。面倒な、くだけた、二人でしか通じない、愛想のない、笑って貰いたい、時事的な、唐突な、異様に長い、色々なメールを送り、返事があったり無かったりする。そもそも互いに忙しく数年会えていなくて、でもその気になればいつでも会えるから、また近々、と思っていたけれども、そう思っていたらこのコロナで、一体次はいつ会えるのだろう、という、きっとこの2021年の世界に無限に近くある関係性のうちのひとつなのだと思う。「体に気をつけて」とか年々普通のことを書くようになってしまった。でも普通のことも大切ではある。と書いていて、結構会いたいということに気がついた。

 

・この夏の日差しが、不要な罪悪感を忘れる力になることを願い、この夏の熱と熱から逃れる冷房の空間が、ひとりで何かを決意する瞬間を生むことを願う。業務のために中断。