&

  映像研究

休日(夜はオンライン会議)

・休日とは何か。

 

・少し前に同僚とその同僚の知人と3人でドライブをしていて(稀有なシチュエーション)不意に「お休みの日には何をしていますか?」と尋ねられて、普通に考えて正直に答えたのが「車でアウトレットとか行きます」だった。その後全力で言い訳的な文脈を挙げたのだけれども実際にそうなのだった。自分の感覚では23区に入った段階でそれはもう休日ではない。23区に入って行う行為はすべてが「業務」「リサーチ」「鑑賞」「勉強」「会食」「活動」のいずれかあるいはそれらの組み合わせ、のバリエーション。だからそのようなあらゆる「最終的に何らかの利益に繋がる行為」の外にあるのが「車でアウトレットとか行きます」なのだった。

 

・などということは忘れて「今日は休日(夜はオンライン会議)」ということだけを考えて起床。手始めに朝から映画を観に調布へ。観たかった『花束みたいな恋をした』を観ることができた。調布で。そういうサイト・スペシフィックな映画として鑑賞したかった。多少は予備知識を入れていたせいか、思っていたよりも全然怖い映画ではなかった。しかしこの映画について話をしたくなるというのは理解できる。「20代の答え合わせ」みたいな映画だったから、おそらくは自分が30代の前半くらいに観ていたらもう少し切実に何事かを考えたのかもしれない。一方で既に40代に突入しているからなのかどうかわからないけれども、現在の自分はこの映画を観て普通に「花束みたいな恋だ」と思う。観て(見て)感じ入ることしかできない。

 

・真剣に生きている人を批評する必要がない、と思ったりもする。

 

・もっとよく見たい、もう少しだけじっくり顔を見たい、と思い続けながら映画を観ていて、そうか、この映画はそういう映画ではないのだよな、むしろじっと顔を見たりはしないのだよなと思っていたところで、終盤のファミレスのシーンで、はじめて「ある人が目の前に存在している他者の顔を見ている」と感じる。そして「あれ、この人ってこんな顔してたっけ」と思う。これは完全な主観だけれども、あの映画は「あれ、この人ってこんな顔してたっけ」という映画なのではないか。それは数年の時間の経過によって印象が変化した、ということでもあるけれども、同時に、普段人は人の顔を、はっきりと、感情のエフェクトを介さずには、見ていない、ということなのではないか。

 

・「花束みたいな恋」のことを考えながらひとりでドライブ。そういえば『花束みたいな恋をした』にはドライブのシーンはない。あの映画は京王線の映画なのだった。9月と12月の休日とまったく同じコースを走る。このコースを辿ると「休日」と思う。まずは福生のデモデダイナーでランチにハンバーガー。隣のデモデ福中で何とも言えない器とファウンド的なフォトを購入。その後16号を北上して入間のアウトレットへ。主にセレクトショップのデザイナーズコーナーで変な衣料品を物色。首に巻く布を探していたから目についたものを購入。ややあって帰宅。

 

・帰宅して夕食の準備。いくつかのメールに返信。そして夜はオンライン会議を1.5h。それで今。音楽を聴きながら一杯だけワイン。休日だった。

 

f:id:MRTR:20210318003925j:image