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  映像研究

朝から昼

・202011091010。午前中の貴重な時間の貴重さを切なく感じながらメモする。坂本龍一のOut of Noiseの一曲目『Hibari』を聴くと、いつでも高尾から相模湖へ、そして藤野へ向かう秋の風景が浮かぶ。冷たい晴れ。空の高さ。冬の気配。焚き火の匂い。

 

・昨夜は会議のあと色々反省しながら帰宅して(時々反省する)、しかし昼にかつて教室に通っていた人がふいに訪ねてきてくれたことの意味を考えていた。会いたいと思うことは凄いエネルギーの消費で、なおかつそれを実際に「会いに行く」という行動に移すことには、何らかの強力な信頼が必要になる。一人で歩いて来る。そういう出来事を、ただ途方もなく「有り難い」ことだと思う程度には大人になってしまったことを切なくも思う。しばしの近況報告。その人に良いことがあればいいと思う。

 

・帰宅してオンライン・ミーティングはタイミング合わず延期。これもまた、会うことの問題。生活の流れの中で、意識が集まり、映像を介して言葉を聴く。何かが昂まり現実の場がひらける。2020年のこの場所では、そのような場がひらかれるためには偶然と無茶が必要。

 

・「活気づける」という言葉の「活気」はどうすれば「つけられる」のか。そういう問題を業務の最中に立ててみて、考える。そして考えたことを、自分にも向けてみる。それは一つには言葉による。言葉の力は大きい。たとえば「驚かせる」「刺激を与える」「揺さぶる」ような方法を今の自分は採用しないだろう。自分にできる方法とできない方法がある。より厳密に言えば、今の自分の存在をよりよく機能させることで実現される方法がある。「光を当てる」という方法は、空間と複数の人間が存在する限りにおいて可能な方法ではある。コンテストの受賞者発表のスポットライト。それも良い。良いがそれも一瞬の刺激ではある。持続的で効果のある方法に「よい課題を投げる」というベーシックな方法もある。その課題を手掛かりにして、自ずと「よく動く」「よく動こうとする」ことを続けるのならば、それは確かにその人自身を育てることになるのだろうか。

 

・そうしたいくつかの方法の底には、まず、自分が、ある人が作るものを「見る」ことがある。よく見る。見ることができるのは表面で、表面を見ることから、作られたプロセスを想像する。プロセスとは判断の痕跡でもあるから、その判断を追う。がしかし、もしもそのような「よく見る」ことがあったとして、どうすればそれが「活気づける」ことに、向かうのだろうかと問いかけてみるが難しい。もしかすると他者である自分が「よく見る」ことを態度で示すことによって、作った人自身が「よく見る」ことを意識するようになる、という、ある意味でとてもシンプルなことなのだろうか。作った人自身が自分が作ったものを「よく見る」ようになる。それは良い。ただしここで、どういうわけなのか、現代に生きている私たち(?)は「よく見る」ことを、間違いや、注意不足や、不勉強や、稚拙さなどの「負」を積極的に掘り起こす行為と取り違えてしまう。どういうわけか。生の深い部分に埋め込まれているように感じる。これはなぜだろうかという問題提起はあり得るが、それを探求するのは教育学者か心理学者の仕事だろう。

 

・学生が自分の作品について話すときに「好きじゃない」「気に入らない」とだけコメントすることがあるが、問題は「どうすれば自分の作ったものを『好き』になり『気に入る』のか」ということではないか。この問題を「どうすれば何かを『好き』になり『気に入る』のか」と拡大することもできるのかもしれないが、しかしもう少し手前でとどまってみて「自分が作ったものを好く」という状態を考える。どうすれば「『好き』で『気に入る』ものが作れるのか」という問いが根本であるのかもしれない。同時に「自分が作ったものを『よく見る』」ことが「自分が作ったものを好く」という状態に接続されるにはどうしたら良いのかという問いは、かなり恣意的ではあるが、自分の興味と関心に直結している。

 

・書きながら考えている。中断。