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  映像研究

新しい

・「新しい自転車買えますよ」と言われたが、そう言われるとなおさら修理する方に傾く。2013年に購入した自転車は定期的なメンテナンスを欠いているせいだろうかそもそもまだ本領を発揮していないように思う。いつかバラバラになるまで乗りたい。青いTREK、8.3DS。日記を読み返したらならば、お店に持って行ったのが先月9/1だったから約一ヶ月半の入院から帰ってくる。昼前にZoomでの面談(自分が学生の方)があり朝はその準備に追われる。面談が無事に終わりややあってぎりぎりまで車で行くかどうか迷ったが、完全な状態になったにも関わらず走ることなく車に載せられるのは自転車の側からすると相当不本意な扱いなのではないかと考えて電車で昭島へ向かう。

 

・メンテナンスの様子を聞き受け取る。フロントサスペンションが青から白になり顔つきが変わっていたのが面白く、その他の各部分もほとんどすべてを交換してもらっていた。カングーをルノーに持って行くときもそうだが、自分が機構のことを何も知らないため、技術者の方に恐らくは物凄く基本的であろう質問をしてしまい変な雰囲気になることがある。そのたびに「ああ、次までに勉強しよう」と思うが、大抵同じことを繰り返している。「動けばいい」と思っている自分がいる。それが「なぜ動いているか」を知ることが不足している。PCも、カメラでさえ、そうなのだ。そして機構を理解しないまま、それらは自分の精神の延長として考えられるあるいは親しい他者として擬人化される。この事象は分析の対象になるだろうか。

 

・とか考えながら自転車で一時間半。夕暮れの多摩川沿いを走る。物凄く走る。風が少しずつ冷たくなる。久しぶりに運動で汗をかく。明日は筋肉痛になるだろう。暮れる多摩川の河川敷を見ながら来週予定されている焚き火のことを考える。毎年10月になると焚き火のことを考える。実際にやってもやらなくても。それは2009年のある夜の印象があまりにも強く自分の記憶に埋め込まれているからで、そのために、つまり定期的に生活の中に強い印象を残すために、かつて自分は友人たちとイベントを構想していたのだろうか。去年も同じくらいの季節にまったく同じことを思い出していた。

 

 

・そして日記が継続されているとその出来事を引用することができる。何度も引用されて、折り重なるようにして/織り重ねられるようにして、出来事は遠くなるのだが、同時により強く刻み込まれる。1年前と11年前がありその先に現在がある。自分が話す言葉は何も変わっていないつもりだが、恐らくは謎の含みを持ってしまっているのだろう。書く言葉は明らかに全然違う。そのことだけが救いではある。色々な文章を読み、誰にも読まれない文章を書き続け、人に読ませる文章を少し書く中で、自分の書く感じはかなり遠くに来た。だからいま11年前の文章を読むならばそれは恐ろしく無邪気な文章だと感じる。なぜそのように書けたのか。この距離について考えることも今の自分にとって必要な勉強だった。だが焚き火の話だった。

 

 

・帰宅して業務の諸々の連絡が来ていたが明日の朝から再開することにする。夕食の準備。焚き火のことを考えるとpupaの『Anywhere』を無条件で思い出すからずっとこめかみのあたりで原田知世が囁くように歌っている。2008年の曲。高尾に移り住んだのが2008年で、焚き火をコンスタントにやっていたのは2009年。イベントは2010年と2011年。しかし2011年は別の印象が強すぎる。だから自分にとっては「2008年から2010年の秋の感じ」というのがある。その時期の秋には、いつでも、乾いた空気に向かって/めがけて、言葉を、歌を、投げるような気持ちで生活していたかもしれない。その時期の、その季節の、妄想だけで、そのあとの何年かのすべてを生きたのだろうか、あるいは。

 

悲しみは胸に 小さく砕いて 仕舞っておこう 心の奥に 

分け合うとしたら ほんの一瞬でも 笑顔になれる よろこびがいい

 

 

・焚き火の話だった。原田知世は凄い言葉を書き歌う。『Anywhere』はタイムマシンの曲で、焚き火もまたタイムマシンだった。普通の焚き火の予定だった。さしあたり、必要なものをリストにしてみたい。