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  映像研究

自戒を込めない難しさ

・202008061107。研究と勉強と在宅業務の間で暑さにぼんやりする午前。面倒な資料(映像)づくりの最初の一歩を踏み出してみた。面倒だと思っていると何事も始まらないし終わらない。せっかく授業がない時期だから思う存分自分のための研究をしたいと思っていたが今年に限ってはそのような余暇の考えは通じないのだった。引き続き家じゅうの布を洗っているのは、家の中の空間が動いていることを確認したいからだろうか。ラグとマットとクッションカバーとタオルケットを洗って干す。誰もが言うように太陽の匂いのする布の幸福さ。眠りの質を上げ、最終的には生活のコンディションを良くするために試みる。

 

・一方でしばらくのあいだ散らかっていた作業部屋を片付けることは布を洗うことよりも難しい。単純に本(の量)が限界なのではないか。壁一面を本棚化してさらに壁三面程度に本棚を置いてもなお床に積まれてゆく本とは何か。トイレで読みたい本はトイレに。しばらく読まなそうでいつか古本屋をはじめたい(再開したい)ために思わず購入してしまった本は寝室へ。日々の研究と業務の下調べとそれにまつわる諸々の本は部屋に積まれている。読むよりも倍の速度で積まれてゆくように思う。本気で読まなければやられてしまう。危機管理としての読書。

 

・コロナの状況、社会的な情報の伝わり方などが影響しているのかどうなのか。インターネット上の言説あるいは言説未満のコメントの言葉の力に消耗し続ける2020年でもある。正しさを主張することと、事を正したいという欲望と、危険を食い止めるためのカウンターと、その他、あらゆる「発言」がないまぜになって、誰もが感じている息苦しさが醸造されている。エクスキューズ込みのメッセージが基調になることで、主張するということ自体の姿勢が変化しているようにも思う。そうした中で多くの「批判的言葉」には「自戒を込めて」というフレーズが漏れなく(商品の値段が書かれたタグかシールのように)言添えられる。そうしなければ「発言」も「主張」もできないかのように。こんなことを、こんなことだけを、しながら死んでいくのだろうかと、普通の感覚を持った人には、そっとメランコリーが寄り添う。私の言葉は愛や祈りのためにあるはずだったのだが。

 

・だから「その外へ、」という思考が浮かぶ。それがいかに仮想であろうと、愚かであろうと、無自覚に体制の維持に加担しようと、世界と世界への批判、そのいずれとも違う生を構想する。その生が確かに生きられたことを知覚可能な何かとして示すことを「表現」と呼びたいとは思わない。しかし生そのものを描けないだろうかと思う限りにおいて「制作」はあり得る。そのような地点から、たとえば自分の場合は、写真=イメージと、詩=言語を、考えることができるだろうか。中断して布を干す。