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  映像研究

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・17日連続授業の5日目。職場近くの書店で『東京人』を買う。色々な人が「2020年5月の東京の生活」を綴っていて興味深い。既にそれはかなり前のことのようにも感じるが、その言葉を読むことでこの数ヶ月の時間の距離を計ることができるようにも思った。そういえば自分は従順に5月はほとんど自宅で生活していたことを思い出す。気候は穏やかで時間もあったはずだが全く本が読めなかった日々を思い出す。あるいは一枚たりとも写真を撮るような気持ちになれなかったことも思う。それは今でもそうなのだ。風景や物を見ることへの感受性が衰えているのだろうかと考える。生活の中で5分でも中断して、スクリーンを見ず、本さえ読まず、対象を見ることができるなら。そう思いながら続く生活を続けている。Twitterに「今年は冷夏なのではないか」という言葉が流れていて目を止める。冷夏といってすぐに思い出すのは1993年の夏のこと。他に何の記憶もないけれども「冷夏」という言葉と共に刻まれている。果たしてこの夏がどのような天候になるのか自分は何も情報を持っていないけれども、雨と太陽が繰り返し畑や田で植物が育つことを祈る。どういう話の流れだったか夕食を食べながら家族と「富士山の噴火」について話す。自分が生きている間にそのようなことが起こるのだろうかと考える。自分が現在「研究」ということを続けているのだとして、競技場でプレーだけに集中する選手のように「研究」という作業に向かい合うことは今後訪れないのだろうという予感のようなものがある。そのような環境は「研究」なるものの方向に進むことを早くから決心してなおかつ色々な幸運から一瞬得られる時間に過ぎない。多くの人にとっての「研究」は、周囲の人に謝りつつ怒られつつそれでもなお辛うじて継続可能な事なのかもしれないと思う。差し当たり。