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  映像研究

梅雨の山場

・202007150845。のろのろと起きてシャワー、朝食、洗濯。今日は業務と研究の区切りの日だから、朝から可能な限り時間をうまく使い、最大限のパフォーマンスを発揮しようと思う。静かな音楽をと思ってmacbookのミュージックをつるつると辿れば、かなり前に後輩に教えてもらったDavide Grubbsを見つけて久しぶりにかけてみる。ただ楽器が鳴っているような音楽が漂う状態で一日をはじめたい。デスクの脇に貼られたカレンダーがまだ6月であることに気づく。めくって今。7月が半分消えたことを思う。早いのか、遅いのか、時間の流れが変だと思うのは、コロナ以降だと言ってみて、しかし自分にとっては、2011年の震災以降、時間の流れ方が変だといつも思う。そしてまたこのように時間の流れ方は、いつも、つねに、誰にとっても、その人固有の理由によって、変なものかもしれないとも思う。長く生きていることと、同じように長く生きている人やさして長く生きていない人と対していることが理由だろうか。あるいは自分の場合は、死んだ人の書いた文章と生きはじめた人の書く文章を読み続けていることが理由だろうか。きっと誰もが、デパートの店の中に吊られた真新しい服と道端の石を交互に見ながら、しかもそれを同じ「物」として認識しながら、生きている。そういう様々な知覚を通じて、時間は伸び縮みするのだろうか。

 

・時間のことを数分考えた。昨日のこと。昨日は結局家にいながらにして午後はまるまる思いっきり仕事。7/20からの予定をまとめて連絡する仕事。全然終わらない。計画を立てること自体は面白い。上演のためのテキストを書いているような。結局23:30まで研究のことは全く手をつけられず終わる。睡眠。

 

・雨のことを考える梅雨。しかし雨が降っていても雨という感じがしないのは住宅が理由だろうか。かつて住んでいた高尾の家は平屋だったから、雨が降ると家という箱状のものが、雨に包まれているような、水の中にあるような、そういう感じが確かにあった。その後に住んだ小屋の家も、風景としては違うけれども、雨が降っている時のことをよく覚えている。おそらく今の集合住宅から移動して、別の家に暮らすようになり、この家を思い出すときに、雨のことを思い出さないだろう。この家に在った、湿度や、光や、匂いのことを覚えていないのではないか。それは一体どういうことなのだろうと考える。土との近さだろうか。建材に木が使われていることに因るのか。風が通り抜けることを感じることも理由かもしれない。そのようにして住む場所と家について、本当に考えはじめることが、いつかできるのだろうか。「いまはただ」、息を止めるようにして、いまの自分の能力に可能な限りにおいて、目の前のことに対する。中断。