&

  映像研究

梅雨自体

・202007060853。月曜日の朝に作業を始める前にメモしておく。起きてコーヒーを入れて家族を駅まで送り戻って洗濯物を干して今。雨が強いから吹き降りがあり窓を開けられない空気。高木正勝『静かな雨』サウンドトラックが流れている。空気のような音楽。

 

・今日は貴重な研究のための一日。以前ならば中央図書館にinしていただろうが、いまはこうして自宅で作業している。時々ノートPCのディスプレイから視線を外すことだけ気をつけながら。

 

・業務でSNSを扱うようになって以来、いわゆる「バズる」という現象(現象と言いたい)をあらためて気にしている。いつ、何を、どのように、ポストすれば、バズ、は起こるのか。こうした問題に対して、統計的/心理的な方面から理論を明らかにしようとしている人や組織も多いのだろう。広告分析といってしまえばそうだとしても、動画やタイムラインを見ることには、特別な精神の状態がある。それもまた本来は「見ること」の歴史と切り離すことはできない。人間はシネマを、写真像を、そして絵画=建築を、どのように受容したのか。その現在に、iPhoneのスクリーンはどのように存在=現象しているのか。面白い研究になるだろうか。

 

・一方で自分はまるで引き籠るようにして、写真のイメージについて、その周りをぐるぐる回るように考えている。これは昨日の業務の最中に気づいたことだけれども、言葉にしてみることによって、初めて自分の思考が分かり始めるということがある。というか「言葉にしてみることによって、初めて自分の思考が分かり始める」ことしかない。絵画を言葉で描写する課題を出題しておきながら、その解題として自分でパフォーマンス的に「言葉にしてみる」ことによって、初めてそのことが自覚された。ひとつひとつ「見たものを言葉にして」「見たものについて考える」「対象同士の関係をまた言葉にして」「関係について考える」「印象を言葉にして」「印象について考える」・・・見ることと考えることは終わりなく続いてゆくようにも思われた。業務に感謝。

 

・そこで別のことも考える。「では、言葉にせず、ただ見ること、とは何か」。それは祈ることと似ているだろうか。「見ることしかできない」とはどういうことだろうか。中断。