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  映像研究

第二回

・202004261713。日曜日夕方の日記。自宅中心の生活になって以来それまでは日記を書かなかったような時間に書いている。一方で日記を書く場所は基本的に自宅の机である。逆に言えば以前の生活ではあらゆる場所で日記を書いた。市立中央図書館、調布の猿田彦珈琲、初台のエクセルシオールあるいはドトール御茶ノ水のベースポイント、所属している大学の図書館、最近は移動時間に電車の中でiPhoneを使いメモすることもあった。かつて自分が(多くの場合ノートPCを開いて)日記を書いた場所を一つひとつ思い出してみたくもある。それは多くの公共の場所である。不特定多数の人が行き交う場所で日記を書いていた。今はそのような場所でノートPCを開くことが難しい。

 

・昨日の夜は山部オンライン・ミーティングあるいはオンライン飲み会の第二回。前回どうしても繋がらなかった友人が今回は参加できてよかった。最大6地点を結んだ最大8人くらいの会話。前半はそれぞれの場所でそれぞれが夕食を食べている空間をただ映しあうというなかなか面白い仕組みだった。後半は飲み食いも落ち着き、おすすめ本のコーナーを経て、いまのこの状況についておのおのが考えていることを話す。そして聞く。コロナ禍における「スウェーデンモデル」という事を教えてもらった。そして友人が話す言葉を聞くことによって「経済」という語を一つ取っても、誰がどのような意味で発しているかによってまったくその実が異なる、という当たり前のことに気付いた。同じように「自由」も「健康」も、一人ひとりの言葉は完全に一致することはない意味を含んでいるのだと考えた。

 

・等しく困難である現在の状況に対して、その言葉の含む微妙な意味の差異を見出そうとすることが正しいのかさえわからない。大きなスローガンで一致すれば良いのではないかとすら一瞬思う(即座にその思いを相対化する)。しかし自分がこの数日考えていることは「文化を守る」というスローガンに対する違和感のようなことで、「文化」とは何か。あるいは文化とは守られるものなのだろうかと問うている。いまこの状況で死につつある「文化」というものが本当に想定されるのだろうかと考えている。これを安易に言葉にすると身近な人と論争になりそうで、論争になるのは良いのだけれども、まだ自分自身が意見を述べられるほど考えを深めることができていない。論争に勝つためではなく、確かだと思える事を伝えられるように準備しておかなくてはいけない。

 

・とはいえ車のことばかり考えている。この一ヶ月は完全に車のことで頭がいっぱいだったが、昨日はそのクライマックスとしての納車(取りに行く)。65500kmからのスタート。この状況で県を跨ぎまくってしまったし、パーキングエリアごとに停めて車を見てしまった。車を見る。そして写真に撮る。晴れた日は青緑に見え写真に写すと群青に映る車。目に見ているように写真を補正する。思わずInstagramハッシュタグをつけて投稿してみたら一瞬のうちに知らない人から反応がある。この感じは10年前にFlickrで山の写真を定期的にアップロードしていた感じに似ている。