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  映像研究

2020年の3月20日、朝のコーヒーショップ

・202003200818。今日は朝からの業務のイベントだからその前に職場最寄り駅前のエクセルシオールにて。日々のニュースの目まぐるしい状況の変化に感情が麻痺しているように思う。ヨーロッパの特に一部の地域と合衆国での行動の制限は「自由な経済」というものを根底から覆す発想と思う。同時に自分たちが生活している基盤が可視化されるような感覚がある。そろそろ散髪に行きたいと思っているがそれができなくなる世界が今この時間に別の場所ではあり得る。「散髪は不要不急なのか」という議論は些細なことのようでいて大きい。そうした判断や戸惑いが生活のあらゆる場面で訪れる。あるいは出会う。それが2020年の3月20日であるとして。

 

・一方で自分の周辺はこの約一ヶ月の停滞を取り戻すとか考えているのだろうか、平常以上の気概を持って現状の仕事に向かうべきという雰囲気に満ち満ちている。その雰囲気の描写とその雰囲気への考えはまた時間があるときに書き記しておこうと思う。

 

・3月20日がまた来てしまった。3月10日の東京大空襲、3月11日の東日本大震災という2日を過ごし、いつか世界は追悼で埋め尽くされるのだろうかと考えたならば、今日は地下鉄サリン事件が起こった日であることを毎年思う。それから中学の卒業式のことを思い出し、H jungle with tのことを思う。1995年の3月20日という点。それから25年が経過している。直接自分の身辺に何事かが起こったわけではないが、きっと自分はあの時の、あの事件以降の生活の中で「雰囲気」ということを学んだのだと思う。目に見える物質ではない、しかし確かに感じる「雰囲気」というものはある。それは何を知覚することで感じられるのだろうか。おそらく自分は特に見ることからその雰囲気を感じようとしてきた。それを読み、理解しようとも。そして写真はひとつの方法であり得ると考えるようになった。

 

・25年という長くも短くもある時間が流れて今はまた別の状況の雰囲気がある。それを見ようとすること。識ろうとすること。そのこととは別の問題としての追悼。黙祷の代わりに書くこと。