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  映像研究

うるう

・202002291216。記しておくメモ。昨日28日は職場での会議。議題は主に「コロナ対応」。原則15日までのイベントの中止。その後のことは時々の状況を鑑みて随時決定。という極めて妥当かつ他にどうしようもない結論。要請を受けての判断。空気を読んでの決断。お達しを受けてのお達し。その感じもやはり2011年の3月11日以降の感じと少し似ている。

 

・昨夜は家で暴飲。そういえば2011年の3月11日は一人で生活をしていたが、今はそうではないということを思い、その心強さについて考えた。暴飲しながら状況の困難について話し合って確認できることの安心感。思えば2011年の当時は山登りをするコミュニティ「山部」が強力な結束力を持っていて、ひとつの夫妻を含む男女4人ずつの計8人で、7つの住まいの点を置きながらいつでも連絡を取り合って、隙あらば集まっていた。集まる自由。その力。今は気づけば6人全員がそれぞれに誰かと同居している。そしてそれぞれに住まいの点を移している。そのこと自体が面白いことだと思うし、それを思うことはまた別の力を感じることになる。あるいは信じることになる。7つの点から別の7つの点へ。直接訪れて知っている点もあればそうでない点もあるが、その全部で14の点を想像してみる。物語を読むように。一種の祈りの方法として。

 

・と思いながら朝の時間をぐうたら過ごしていたら熊本の夫妻から野菜が届く。色々な状況の中で確かな仕事をしている人がいる。野菜と一緒に送られてくる新聞の文章を読む。自分が直接知っている人の中で一番文章がうまいと思う友人が書いた文章はいつでも明晰で、言葉の選び方もリズムも気持ちが良い。そして何より凄いと思うのは誤字や脱字がない。10年近く新聞や私信を読んでいるが一度もない。自分は研究という活動の一環で文章を書いたり、業務で人の文章を直したりするが、最近実感することは、これは物凄い力だということ。基本的な読み・書きの力でまったく足元にも及ばないといつも思う。よりよい文章を書くためには、まずは自分が書いた文章を確かに読み直す必要があり、多くの人はそれを恐れているから、良くも悪くも「適当な」表現になり、ぽろぽろと誤字や脱字が起こる。だから「良い文章」と感じる文章から感じるのは勇気のような感覚だろうか。鏡に映った自分をまっすぐに見つめているような印象の文章がある。それとは別の魅力を感じる文章も存在する。しかしどのような種類の文章を書くにせよ、この勇気を忘れずにいようと、いつも野菜と一緒に送られてくる新聞を読んで思う。そして菜花を茹でる。

 

・仕事が消えたわけではないがいずれにせよ4日までは自分の作業のため缶詰になる予定だったから、デスクでまずは書くことから始めてみた。「うるう年」の「うるう日」に人は何をしているのかと過去の日記を読んでみたならば、2016年の2月は猛烈に忙しかったようで記録がない。2012年の2月には職場の大規模な変化があり、いつよりも混乱している中で人たちと最後の時間を過ごしていたのだと思い出した。それを「一年遅れで押し寄せた津波のようだ」と感じたことも思い出した。その時わかれた人もいる。その時一緒に仕事をすることになりその後わかれた人もいる。過去の出来事によって今の自分が問い直されるということがある。記録と回想を中断。