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  映像研究

ギフト

・202001200936。例によって業務が「朝二」からなので家で朝食。洗濯。宿題。忘れないうちに書いておく週末の記録。

 

・1/18(土)は毎年観に行く母校の卒業制作展へ。年によってタイミングや偶然や約束があり同窓会のようになったり慰安旅行のようになったりすることも面白いが今年は家族と一緒に現地に向かい展示は主に一人で回る。膨大な数の「作品」と呼ばれる何かを見る。ひとつの作品の中に膨大な「判断」があり、その判断のことを想像しつつも、最初に見る印象は全然直感的であったりすることが面白い。どのようなプロセス(素材、技術)であるにせよ、形が現れること自体がまずもって奇跡的だと思う。前にどこかで読み(あるいは聞いて)印象的だった高橋恭司という写真家の言葉「現代では個人の名前で何かをつくること自体がアナーキーなことではないか」ということも思い出す。重く充満した空気の中に何かを新しく存在させることの異様さ。狭い思考の通路の先に形が現れる不思議さ。何かそういうことを考えた。

 

・会って話してみたかった元学生と立ち話する。その元学生と過ごしたたった4、5年前のことがとても長い時間のようにもあるいは一瞬のようにも感じられる。制作にまつわる無数の判断と冒険の話から諸々近況まで聞きながら、今のこの時間はギフトだと思う。こういう時間があることを期待してはいけない。年長者の過度な思い入れを差し引いた上で、あくまでも奇跡。生き続けていると時々こういう時間と出会うかもしれない。出会うことから自分もまた自分のやるべきことを進めようと思う。

 

・1/19(日)は業務のイベント。数ヶ月前から頭の片隅にあり年末年始から準備をしてきたがなかなか思うようにばかりはいかない。反省。イベントのような業務があると自分もかつて(今となっては短い期間だが)現場の仕事にまつわる諸々に関わっていたその頃を思い出す。その頃の自分は与えられた「仕事」を終わらせることが目標だったが、今考えてみると、そもそもイベント自体の企画ということもあるし、そのイベントが営利企業にとってどのように位置づけられるかということもある。表に出て仕事をする人がいかに気持ちよく力を出し切るような環境を作れるかという問題もある。というようなことを考えていると、完全に一周かそれ以上回っている、と思う。様々なレベルの「判断」がここにもある。だから業務の内容とは別のところに、何か尊さと呼べるような何かがあり、というか自分は業務に関わっていてもその尊さのようなものの方に焦点を合わせようとしてしまう。

 

・でもそれは先述の「奇跡」のようなこととも少し違う。これはなにか。何かの仕事をするときに「この仕事にはどういう学びが潜在しているか」ということをまずもって考えることは、基本的には「ライスワーク」というような考えを否定する思考であるのだと思う。労働という問題や具体的な不当な状況、あるいは搾取というようなタームはあるにせよ、その労働から企業が想定しないような学びを勝手に引き出してしまうこと。賃金以上の学びを「横領」すること。しかしこの思考自体は、ブラックというそれ自体を名指す言葉が現れることで完全にもう誰も挙げなくなった「やりがい搾取」と呼ばれるような企業側の運動においても想定されているのだろうから、ゆえに企業は学校化していく、ということなのだろうか。かつてならば例えば就職の面接のような場面で「この環境で成長したいです」という学生に対して「企業はあなたの成長のために存在しているのではありません」という返答があり得たが(今もあり得るが)、普通に考えて現在の表向きのスタンダード/トレンドは「ここはあなたが成長するための場です」という理念を掲げることで、はたらく者から賃金以上の力を引き出すことを目指すことになるのだろう。

 

・だからもっと過剰に学びを引き出すことで搾取が追いつけないところにまで行くこと、を考えてみたりもする。ただし問題は、そうした姿勢を他者に強制することはできないがゆえに、協働の困難があること。中断。