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  映像研究

6日

 
・201901061112。職場の近くのエクセルシオールにて。3日から10日までの連続的な業務と並行して11日は締め切りがある。その準備運動として書いている。書いてみることの重要性。同時にその言葉をどうやって開いていくことができるか。ともすれば自分が発する言葉、日常会話、挨拶、講評、年賀状、申請書、日記、も全ては定型的な言葉になってしまう。定型的な言葉と定型を壊すような言葉。はっとするような言葉は必要であり、同時に「はっとする」こと自体がスタイルになってしまっているのならば、もう少し腰を据えて言葉を選び、思考と対照させ、流れを感じ、フォームを作らなければいけないだろう。


・毎年『現代思想』の1月号は買って「総展望」を読み、知らないことを知って、読めない文章の読めなさに焦りを感じて、気持ちを新たに自分の考えられることを考えようと思う。「ポストヒューマン」というキー・ワードを自分の研究とどのように接続できるか。「デジタル」というキー・ワード、あるいは「メディア」というキー・ワードはどうだろうか。それを解釈し、解体できるか。正月には大抵NHKの近未来予測的な番組を見ながら「へー」とか「ほー」とか言っている。何よりも多くの事例を知り自分の考え自体を更新したい。そのためには一度自分の考えを手放してみることが必要なのだと思う。「物であることの特別さ・・・」というようなことは、いつでも思うことができるから、一度忘れるくらい遠くの現実を見てみたい。


・雑誌『MdN』の映像特集のようなものも買って読んでみる。どんな映像がどんなメディアで再生/上映/公開されているのか。ほとんど意地のような気持ちで追いかけてみる。あるいは全然違ったテンションでファッション雑誌『UOMO』を買い、40歳の男性は一体どのような服をどのような感じで着ているのか、ということを見たり読んだりしたいのは、友達に会う代わりということかもしれない。友達に会って「それ、どこの?」とか「最近、なに欲しい?」というようなやり取りをすることが、自分の鏡のような行為として時々必要であるように思える。同じように見える「物」の違いについて会話をして、あわよくば共感したりすることが、この時代の雰囲気のようなものを共有していることを実感できる、自分にとってたぶん唯一の方法であるように思う。ファッションの話だけをしたい。


・一方で昨年後半に勝手に始めた清野賀子研究も継続して2月以降書く作業を開始したい。忘れてしまわないように。