&

  映像研究

明けました

 
・201901041047。職場近くのドトールコーヒーにて。午後からの業務に備えつつメモを残しておく。正月休みを挟んでテキストを書く作業の準備を再開するために。正月休みは楽しかった。楽しいことしかなかった。楽しいことしか見えないような特殊なフィルターが世界にも自分にもかかっているような気がする。楽しいと思えること、この楽しさがずっと続けば(繰り返されれば)良いのに、と思うことは、異様なことなのだろうか。正月休みということもあり、いつも以上にタイムラインを見ていると、いろいろな種類の表現に出会うことになり、面白く読んだり見たりする投稿が多いものの、一方で、例えば紅白歌合戦や、初詣や、親戚同士の会話や何かに対して言及している言葉を読んだりすることで、そんな対象も批評の対象にしなければならない人の不思議さを思う。仕事なのか、性質なのか、生き方なのか、存在なのか。


・自分の批評はテレビの映像のテクニカルな部分へ向かう。「これ、どういうカメラで撮っているんだろう」「この段取りの為にどれくらい時間かかっているんだろう」と考えることも面白い。元旦のNHKタモリが出ていた東京の風景の変遷、のような番組は面白かった。隈研吾本谷有希子というゲストも良かった。そういえばなぜだろうか、本谷有希子柴崎友香が東京について書いたり話したりしている言葉に惹かれることがある気がする。東京を相対化する言葉、しかしそれは批評ではないような気がする。正月はテレビさえもクリアに/輝いて見えるから、そこに現れるイメージは情報量が多い。一方で街を歩くと、街もまた別の種類のクリアさがあるように思う。それを言語化するのは難しい。


・正月は社会の制度も一瞬止まる感じが良い。好きだ。年々正月を恋しく思う。しかし一方で全然止まっていない、労働や仕事を続ける人がおり、というか正月だからこそ発生する労働や仕事を見て、思わず「大変だ」とつぶやいてばかりの年末年始だった、まるで子供のように。「4日間の正月休みが少ないとか贅沢言ってごめんなさい」と思わないこともない。今年(去年)は特に12/30も強制的に休みにして、大掃除を充実させた(つもり)。それは2019年は自宅で作業することを基本にしようと考えているからで、図書館にinするのは確かに気持ちがしゃんとして良いのだが、自宅のデスクも機能させなければ勿体無いように思ったことと、書く作業の経費削減という現実的な問題が浮上したことによる。朝から夜まで図書館にいると駐車場代1,100円、プラス喫茶コーナーのランチ700円、夕方お腹減ってケーキセット500円で、結局結構お金を使っている。気づきがあった。単純に「外食を減らす」のは楽しくないので「ひとりの外食を減らす」ということを目標にしてみる。むしろ積極的に人と会うことこそをしたい。


・自分の思考をあとどれだけアップデートできるのだろうかと考えている。たとえば10年前に比べてはっきりしていることは、どんどん複雑に見えてきている、ということで、その意味で「いろいろなことがわからなくなってきた」ということだけが明確に言える。視力が上がってきたのだろう。それは時間が経てばみんなそうなのだと思う。見えなかったものが見えるようになってきて、どんどん言葉を発するのが難しいと思うようになる。これは「ありとあらゆる種類の言葉を知って問題」とは別のことだ。見る/見えることに関わっている。最近ものすごく良く見えるように思うことは「ああこの人はかつて他者と楽しく何かを一緒にやることを夢見てあるいは実践したのだろうが色々とあって今はもうそういった呼びかけをすることを意思を持ってやめているのだな」という人の振る舞いで、究極に単純に言って「疲れている」。「疲れ」を知り、「疲れ」を感じ、しかし疲れないでいるにはどうしたら良いか。呼びかけることをやめないために、人はどういう心構えを持つべきか。正月に考える。


・年末に横浜に行った時に古本屋で手に取った「つくりかた研究所」という人たちの活動をまとめた本を電車の中で少しずつ読み、その繊細なテキストを読むことで、今の自分の労働やかつての実践そしてこれから構想したい事について考えた。以前も強く思ったが、不思議なことは「なぜ人は自ら奴隷になるのか」ということよりもむしろ「なぜ奴隷になりつつある人は共闘できないのか」ということで、それに対して「自分はいつ誰とでも共闘できます」と思って/表現している人は良いのだ。自分はそうではない。そうではないことをこの数年で思い知った。自分は奴隷になりつつあるが共闘することもできずむしろ共闘を呼びかけることすらもうできないのかもしれないと思いながら生活をしている。そのことを現在地点とした上で、なお人は人と何かをはじめることができるのだろうかと言ってみることは巨大な問いだ。もちろん問いには答えを対峙させるのではなく、実践することで開いて/拓いていかなくてはいけない。


・言葉、場所、資金、癒し、祭り、会話、記録、連絡、食事、あとは何が人と人との繋がりに必要なのだろう。それらはそれぞれ結びついている。変化し続けている。それらを実践することと可視化すること。そういう作品を見て考えることが多い。「活動の自己目的化」を挙げて批判をすることも虚しい。極端に言って「自己目的化しない活動は消滅する」のではないだろうか。「目的」を外部に設定することを疑う必要がある。あるいはその二極を知り揺れ続けることにしか活動はない。なぜ揺れるかといえば生きている人間(わりと簡単に死ぬ人間)が、その活動を構成しているからだ。そう考えた時に例えば人が入れ替わろうとも同じ利益を出すことが所与の条件である会社組織の異様さを思うことができる。否定ではなく相対化するために。


・とかも含めて引き続き書くことをする。メモとして。テキストの準備として。メモとテキストを融合させるために。