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  映像研究

冬のある日

・201912050854。郵便を待ちながら家でできる作業を始める前に日記。滑り落ちるように年末。年末の「許されている感じ」に許されてしまう前に、自分で自分の年内の目標を設定し直す。そして各種の連絡を忘れないようにかつ素早く。行けるタイミングで行けるイベントには行くこと。会える人には会えるときに会うこと。可能な限り年始の準備をすること。自分に唱える。

 

・昨日は丸々自分のことのためだけの一日。朝からフランス語の授業。その後神保町を少し散策して恵比寿へ移動。写真美術館のライブラリーにて探していた『コモン・スケープ』の図録とデジャビュビスなどの資料を複写。せっかくだからと山沢栄子展、中野正貴展、日本の新進作家展を鑑賞。それぞれに色々と考え始められることがあるが少し慌しくなってしまった。渋谷方面に歩き今週撮影したフィルムを東京カラー工芸社というラボへ出しに行く。年内にリサーチとテストをして来年は暗室作業をしてみたいと思う。渋谷駅へ。「セントラル」「中央」「スクランブル」が点在して方向感覚が壊れるような街の印象。きっと現在の渋谷を集中的に写真で記録している人もいるのだろう。歩道橋を歩いていて、かつて通っていた桜ヶ丘方面を思わずipadで撮影してしまった。その後はやめに帰宅して夕食の準備。完全に自分が食べたいだけの鍋を作り久しぶりに家でビールを飲みたいだけ飲む。

 

・フランス語と暗室作業について考える日。あるいはそうしたことをいつでも頭の片隅に置きながら生活する。それは自分が大学に入学した直後にやっていたことで、その後フランス語の学習も暗室作業を必要とする写真の制作も自分の生活から一度は(完全に!)消えて、そして約20年を経て戻ってきた。呪いのように回帰する。その因果を不思議であると思いながら、しかし時間が流れているということも本当はあまり実感がないことに気がつく。たぶん優秀な人は一度で決めるのだろう。しかし自分は万事が一度あるいは二度三度、テスト、お試し、様子をうかがい、次第に理解していくようなところがあるのだろうか。いま学生を「見る」ことを業務でしていても、同じ教室で同じテーマで制作をしていても、それぞれに違うプロセス、段階、心持ちでいることに気づいてはっとすることがある。自分の尺度で、あるいは一般的に共有していると思われる時間軸だけで見ないということ。裁くために見るのではないということ。

 

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