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  映像研究

ここは中央図書館

・201911120950。開館して1時間が経った中央図書館にin。久しぶりに、と言ってみて前回は10月15日だったから約一ヶ月前であることが日記をつけているとわかる。快晴。洗濯を二度した。ラジオは快晴と温暖であることのほかに、関東では木枯らし一号かもしれませんと伝える。ホットカーペットおよび寒い季節用のカーペットをクローゼットから出し、敷く。一緒に軽く掃除。最後の衣替え。秋になればすぐ冬になる。夕食はピエンローだねと家族と相談してしいたけをもどしておく。

 

・図書館で家にも同じものを買ったポパイの新しい号をぱらぱらしながら今日の計画を立てる。午前中は対談の原稿起こし作業とフランス語学習の宿題をする。お昼に少し写真を撮りに行き、午後は引き続き翻訳および精読作業を再開しようと思う。夕方に目処がついたらコーヒー豆と小沢健二の新譜を買うために調布かどこかに出てみようかと思う。予定は未定。いつでも「最悪よりは少しまし」「最低よりはかなりまし」と思っている。この図書館の時間が許されていることも、気に入った服が着られないことで気持ちが弱くなっていることも、全てが「許されているゆえの」コンディションだと思う。

 

・数日前にAmazonで購入したのは多木浩二『写真論集成』で、特に1970年代はじめに書かれた写真についてのテキストが新鮮に読める。『ことばのない思考』や『視線とテクスト』の内容とは重なるものの、コンパクトに文庫一冊にまとまっているのが良かった。行き帰りの電車で読んでいる。もう一冊は原稿起こしの資料でもあるからと思い高橋悠治『ピアノは、ここにいらない』。高橋悠治という人がデヴィッド・グレーバーの仕事に注目するのはどのような理由からか、など興味深く読むがさらっとは読めない。

 

・作業の傍らで考えたことをメモしておく。

 

多木浩二の写真についてのテキストはボードリヤールの写真論と響くところがあり、それらが書かれた時期のずれを考えれば、ボードリヤールが写真について書いたことはまったく新しくない。まずはそのことを確認する。写真は表現ではない。写真は人間の意識とは異なる原理でイメージを「創造」する。その原理を「無意識」という意識のネガとして捉えるのではなく、世界の方に開いてゆくこと。ざっくりと言って20世紀の後半にはそのような思考があった。写真はそのことをわかりやすく示す。そして、しかし、例えば多木浩二のような人が描き出した、このような写真の「本質」は、今にあっては、また別の原理によって早くも削り取られようとしている。そのことも予感しながら、2000年の前後にボードリヤールは書いたということなのか。

 

ボードリヤールの写真よりもいまだに謎を残すのは清野賀子の写真で、清野賀子の写真とは何かと日々考えている。二冊の出版された写真集は明確にスタイルが異なり、それゆえ前者から後者へのスタイルの移行、そして写真家自身の死をもってその制作を線的/時間的に描くことができるように思ってしまう。しかし並行して撮られた写真を見て考えるほどに、そうしたストーリーはこの写真家を理解する上でまったく不適当で邪魔なものだと思うようになった。『THE SIGN OF LIFE』の印象から「風景」を題材と設定することも、短絡的と思える。雑誌でのファッションの仕事や『Chicken Skin Photographs』での人物を写すことへのモチベーションの方が、むしろ清野の仕事を考える上で重要かもしれない。そして『至るところで 心を集めよ 立っていよ』は、少なくとも2003年から2009年まで、様々な雑誌で撮られた写真群であったこと。しかしそれと並行して『a good day, good time』のような、少しの軽みを感じさせるシリーズも制作していること。

 

・おそらく写真家の中では、何も終わっていないのではないか。『THE SIGN OF LIFE』と『至るところで 心を集めよ 立っていよ』は別のものだが、その二つの言葉がほとんど同じ願いを表しているようにも読むことができる。だから、ひとつのシリーズから別のシリーズに移行したように見えても、そう単純ではない。必ずひとつのコンセプトとともに制作があるわけではないのかもしれない。あるいはそうした制作の態勢と写真というメディアには関係があるのだろうか。線的/時間的なストーリーから、星座的な理解へ。そういう試論を書けないかと構想する。中断。

 

・201911121859。再び日記。ほぼ予定通りの一日を過ごす。写真を撮ることに集中できたことは良かったが、翻訳および精読は思っていたよりも進まなかった。また予定を立て直す。何度でも。昼ごはんを食べた南多摩駅蕎麦屋はとてもよかった。そしていま調布の猿田彦にinして小沢健二のCDの歌詞カードなど見つつ休憩。「いま」という今が2019年であることに驚き続けながら生活する。