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  映像研究

加速

・201906041111。加速主義について書かれたいくつかのテキストを読みながら、ここしばらく自分が感じていた違和感や不安にひとつの視点が与えられたように思った。自分自身が好ましく心地よく強いて言うならば正しいと思えるような思考や姿勢を拡大しても好ましさや心地よさに繋がる予感が一切しないという違和感や不安。「自分が、自分の判断において、楽しいと、満たされていると、介入を必要しないと、示して/実際にそのように生きて、それを見せることによって、それを見る人もまたそのように振る舞う」ことが戦略だった。と言ってしまえばあまりにも楽観的であるが、その楽観的であるということが、抵抗の姿勢でもあるということを、わざわざ確認するまでもなく、自分の知りうる範囲の少ないくない他者と共有していた時間があった。あったように思う。たぶんあった。あったはず。そうした楽観は色々な要素によって挫かれる。この戦略は、この抵抗は、脆い。自分がそのことを理解したのは2015年くらいのことで、その後(そう言った意味での)作戦を立てることがまったくできないまま、声の大きな人の大きな声や小さな声を聴くことをしながら「戦略とはそもそもなんだろう」と考えていた。考えてはいた。そうしている間にしかし、自分の言う/書く「抵抗」の中身は空になってしまったのだということを2018年くらいから認識して、その上で「でもやるんだよ」とも思えず、しかしながら「楽観」が「諦念」の方へ、あるいは「享楽そのもの」の方へ、流れてしまうことは、何か違うのではないかと、その地点へ動くことへはブレーキをかけなければいけないのではないかと、考えながらもまったく確信が持てずにいた(いる)。端的に「倫理」が後退して、有り体な言い方で「撤退戦を強いられている」中で、それでも「ここは譲れない」と、何を根拠に考えるか、そして考えたからには、そのラインを維持するために行為することになるのだが、その行為に対しては自己/他者からつねに「それは「どの程度」本気なのか」とに問われつづける状況がある。あるのだと思っている。そしてそれは結構きつい。

 

・「『ここは譲れないライン』など一切ない」と、加速主義者ならば、きっぱりと言ってのけるのだろうか。気持ちが良い。気持ちが良いだけではなく、それは実効的である。しかもそれほど単純ではないだろう。ドゥルーズ=ガタリは「プロセスを加速すべきだ」と本当に書いたのだろうか。