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  映像研究

作業中のメモ

 
・201809030944。ここは中央図書館。今日も作業をする。一日おきの作業も贅沢だが、2日いや3日続けて作業ができるくらいが有難い。何とか時間を。そして読む集中力を。それが音楽を作る人にとっての「レコーディング」のような作業であれば良いと思う。集中して読み解いて言葉を発して(タイピングして)タイムラインを作る。何らかの素材と時間的制約が与えられている映像の編集とは少し違う種類の作業であると思う。作ると時間になる。


・あるいは少し前に大判カメラを調べていてふと「いま暗室をもう一度作ることは可能だろうか」という怖いことを思いついてしまった。かつて実家の一部分を暗室にしていた以来、フィルム現像もプリントも10年以上していないのだが、そして引き伸ばし機は処分してしまったのだが、いまそれをもう一度開設?再開設?して、そこで何らかのイメージを作るようなことができるのだろうか。時間あるときに調べてみようと思う。それもまた「レコーディング」に近い作業かもしれない。


UAのビデオクリップ集のDVDを購入してみた。90年代後半から00年代前半に放送されていたイメージを2018年に見る。20年前の、youtubeなどなかった時代の映像。HIROMIXの『ミルクティー』は知っていたが、高橋恭司の『甘い運命』と、清野賀子の『歪んだ太陽』は知らなかった。まさか映像を作っていたとは。驚きとともに見る。偶然なのだろうか、3つの映像は基本的にワンカットで一曲の映像になっている。歌声は合成されているのだが、歌うときの表情や身体のありようは、持続された映像として見ることで、確かな存在感として印象づけられる。荏開津広が書いた解説のテキストを読む。

初期のUAのポップ・ヴィデオは、UAという存在の翻訳を否定しているように思える。UAの14本のポップ・ヴィデオは通常のポップ・ヴィデオの規範から外れているものが多いが、それは一つにUA自身が撮り手をいわゆるプロフェッショナルなポップ・ヴィデオの作家たちに共同作業を依頼しなかったからである(無論、例外はある:例、田中秀之、ジョナス・ザックリソン)。
この14のリストには4人の写真家が参加しており、写真は誰かが言ったように「特権的な瞬間」を捕らえるものだとしたら、ここでの動く映像は先行的なイメージを次々に押しやっていくものではなく、特権的な瞬間を持続させようという試みのように思える。そして、結果、一つには、それは細部に美が宿るという日本的な美学にも結びついているのではないだろうか?
女性の顔の表情に世界全体を見い出すことは日本特有のことではない(例:リベリアの女性の顔のクロース・アップ)。ここでは、しかし、誰もがUAの弁護をしようとしているのではない。誰もがUAを社会的状況と結びつけようとしているのではない。証言でもない。存在がそこに、緻密なライティングという演出はあるにしても、観察される。見る側は視点を垂直ではなく、自由な空間概念の中で移動することによって、様々な焦点を得る。センシャルなイメージ、母性的なイメージ、喜劇のコマ送り、災害のイマジネーション、幸福の象徴…いずれも特定の映像を指ししめすのには、曖昧な言葉だが、人は優れた歌う女性に全てを見る。それは巫女的でもある。巫女のいうことは翻訳が不可能である。そして、優れたシンガーの手ぶり、表情、微かな動きもまた翻訳が出来ない代物に違いない。そして(例えば)写真家はそれを本能的にか、意識的にか、会得しているのかもしれない。


・女性性のようなことは自分はあまり考えなかったが、確かに「ミュージックビデオの規範」や「写真家の写す映像」については考えさせられるところが大きい。写真家の身体は対象(被写体)の身体の目の前に「在る」のだ。本当はいつでもカメラは誰か固有の人の身体とともにあるはず(だった)のに。それは作家性(有名性)のようなことで、その身体の現前(カメラの裏側の現れ)を期待されていたのかもしれないが、しかしそれは付属的な事柄でしかない。結果として残された映像を見ることから、何か考えられればそれで良い。


・『歪んだ太陽』も『甘い運命』も、そして『ミルクティー』も、便利な動画共有サイトでは共有されていなかった。誰かにそっとこのDVDを見せることで共有してみようかと思う。『プライベート・サーファー』はこれらの映像とは少し違うが、普通に好きな曲だ。カラオケでキーを半オクターブくらい下げて、自分の気持ちを乗せて「いつだって・泳げなくても・飛び込めるように・ねえ誰か・この世界を・全部洗って」と歌いたい。