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  映像研究

夜中

 
・夜中に書く。夜中に部屋で書くことをすると、ちょうど一年前くらいのことを思い出す。ある判断をしたある時期のことを思い出す。ダイアリーとPCメールのやり取りが自分のこの数年のログになっている。他者に向かって書いた言葉(PCメール)と自分に向けて書いたような宛先のない言葉(ダイアリー)が「対」になって、その時の自分の心境が浮かび上がってくるようだ。ダイアリーには「負けた」と書いてあり、PCメールにはその「負けた」と言わざるを得ないプロセスが記されている。確かにそれは「負けた」のだ。あるいは「至らなかった」のだ。いまそのことをもう一度思い出してみる。充分にナイーヴであることを承知しながら。


・同時に「話すこと」と「書くこと」の両方を鍛え直すことが必要とされている。あるいは「読むこと」もであるかもしれない。数日前に戴いた講評テキストの重みをようやく受け止めようとしている。当たり前のこととして、今よりも良い仕事をしようと思うならば謙虚でなければいけない。逆にどうして謙虚になることができないのかと考えてみれば、それはもうそういうふうな環境で生き延びてきてしまったからとしか言えない。


・つくづく自分が「研究」ということができていない(研究らしきことをすることを好んでいても)と思うのは、例えば「何かと何かが似ている」という直感からスタートしているからだ。そのような直感を直感であると理解することに、完全に何か誇らしいものを感じてしまう、何か自分にとって都合の良い神話を立ち上がらせてしまう。そして結局その小さな神話を神話であるということを維持するために、神話であることを証明することが目的になってしまう。わかっていながらも、どうしてもそうした回路から外に出ることができないならば、全く別のことをやっている人の誠実な振る舞いにはっとすることがある。反省すること。


・対象を丁寧に見る/読むことについて。伝えるための言葉のレベルをもう一段階、完全に上げること。