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  映像研究

選挙が終わると

 
・選挙によってすっかり変わってしまった社会になるわけではない。だけれども少し風景は変わる。この数回の選挙のあとには、少し落ちつかないような、しかし、ああ、これはこれとしてこの瞬間から何事かを頑張らなくてはいけないのだな、という気持ちになった。例えばあるブログで、東京選挙区の吉良さんと山本さんの投票数を足したら130万票になるのならば、原発に反対してそれを無くした方が良いと考えている人は少なくとも東京だけで130万人いるのだ、というような内容のことが書いてあって、そうかもしれない、と思う。顔は見えない130万人という人びとの誰かと、例えば今日もたくさんすれ違って、またそれらの人びとと会話を交わしているのだろう。そのことを思う。そしてその130万人のうちのたくさんの人と、自分は既に会っている。おそらく同じ場所にいたことがある。そして今も変わらずに何かの繋がりを感じたりもする。そのことも思う。


・業務は業務として継続しながら、そして家族や友人たちと並木道を歩きながら、それらのことと並行して一体どのようなことができるのか。純度の高い何か(問題意識)を持っていることと、それとはわかないような薄い濃度の何か(問題意識)を両方とも持っていること。そしてTPOに合わせつつ、時にはTPOを無視したりずらしたりしながら、その問題意識を提出すること。そんなことができるか? できるようにしようとするだろう。またあるときにはそれを「コミュニケーションの問題」や「表現の問題」あるいは「認識の問題」として展開したいと思うかもしれない(TPOに応じて)。いま自分が、身近な友だちや、職場の人や、初めて会う著名な人や、久しぶりに会った元同級生と、どのように話すか。その言葉がどう同じでどう違うのか。どういう言葉を選び、どういうニュアンスで、どういう長さの話をするのか。そういう中に、例えば「権力」について考えるきっかけのようなものがあるならば(たぶんある)そういうものを見つめることからも、何かを考えるだろう。


・そのようにして、きっとこれから自分はますます、ある意味では歯切れの悪い話し方をするよりないと思うけれども、一方ときに歯切れの良い言葉も必要とする。数日前にひょんなことから(本当にひょんすぎて驚いた)コミュニケーション能力についての1時間くらいのセミナーのようなものを聞くことになり、まさか自分がどんな理由であれ(あるいは知らなかったとしても)そんな場にいるなんて…と呆然としつつ、しかしせっかくだからと思って、基本的に良い聞き手になろうとしたり、普通に話が面白くてメモを取ったり、とは言えやっぱりあまりにも気持ち悪くて引いてしまったりと、その1時間で本当に色んな気持ちになったので、少なくともこの経験は非常に良かったと思っている。しかし高校生に向かって「就職のときは企業が求める人材として自分を作ってください」とか「人は自分が期待した話しか聞こうとしない生き物です」とか「人は見た目が9割です」とか「こういうことは全部社会が要請しているんです」とか言うことの罪は大きい。罪は大きいよ。言葉を大切にしない罪は大きい。適当なことを信じるようにコントロールしようとする言葉を使うことの罪はあまりにも大きい。何度も記すと呪いのようになってしまうからほどほどにするけれども(危ない)本当に罪が大きい。そういえばあのコンサルタントの人は何党に投票したのかなぁ。


・「戦争が出来る『普通の国』にしよう」とかの全然不思議な言語を駆使する人ともいつか会話をすることがあるだろうか。「ねじれ」という言葉を、それを「解消したい」という話の流れで口にする人を目にしたことが無い(テレビ以外の現実の会話の場面で)。でもきっとそういう人はどこかにいるかもしれないのならば、いつかそのような人とも会話をすることがあるかもしれない。そしてその時(まだ「ねじれ」という流行語が生きていれば)自分は「ねじれ」なのだろうか。「こんにちは。インターネットを使い公共交通機関を利用しながらも行き過ぎた資本主義を憂慮する『ねじれた』私です」と自己紹介するのだろうか、という完全に自虐的な冗談のような意識を促す言葉が気がつくとうっすらと降り積もっている今日この頃に、果たしてそうではない言葉で話し続けることは可能かと考える。そのような言葉の方法と原理について考えていたことを思い出した。