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  映像研究

水曜日は病院

 
・水曜日は実家近くの病院へお見舞いへ行く。病院という場所に行くことにも慣れる。もしくは慣れない。あるいは積極的に慣れようとするかもしれない。そういえば生まれてから四半世紀を過ごした清瀬という場所は病院が多く、というか清瀬という街は病院で栄えたような街なのだから、例えば小学生の頃に「ちょっと『けっけん』で遊んでくる」と行って出かけた『けっけん』の雑木林が『結核研究所』の略だということに気づいたのは物心的なものがついてからしばらくしてだった。けっけんで友だちの犬の散歩に付き合い、けっけんで秘密基地を作り、けっけんでクワガタを採集して、けっけんを通って中学校へ通った。実家の近くに頻繁に通っていると、どことなく2年前の3月の震災の直後の感じに近いような感覚になる。実家の近くに頻繁に通ってということ自体が、うっすらとした緊張感のような、日常のベースノイズになる、ような気がする。実家の近辺を「どこにでもある普通の場所である」と感じると同時に「どこにもないような不思議な場所である」と感じる。そしてそれはすべての場所が少なからずそのような「普通」と「不思議」の間を振れているのかもしれない。夕方に立川に立ち寄ってオリオンパピルスにてドゥルーズ『意味の論理学』の文庫を買ってみた。宿題は積まれる。夕食の材料を買って帰宅。家族より先に帰ったから夕食の準備。家事は分担しているのだろうか。明文化されないルールのような何かが作られる時期なのかもしれない今。新しい日常。