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  映像研究

もう一度観る

 
・同じ演劇をもう一度観る。一日空けて『トータル・リビング1986-2011』を観劇。結局もう一度観てしまったのは『ニュータウン入口』とまったく同じパターン。同じ舞台公演を二度観ることほど贅沢なことはない。二度観ることでわかることがあるように思う。二度観ることで気がつくことは多いように思う。違う席に座ってみると空間の感じも微妙に変わる。そして「あ、一度目はここで笑いが起こったけど二度目はそうでもないのだな」とか「ああ、あの言いよどみももちろん演出だったのだな」とか思う。そして何より作品自体の印象が相当に変わる。具体的には、一度目観たときには、第三部で少し出来事を追えなくなってしまったのだけれども、二度目観たときには、むしろ第三部でどんどんテンションが上がっていくように思えた。そして人物造形/俳優と登場人物の対応は思っていたよりも(一度観たときの印象よりも)はっきりとしていた。そのような印象の変化は不思議だし面白い。



・それでまたあらためて考える。この作品から、この作品のきっととても大切なポイントであるところの「『欠落』と『忘却』について」考えたい。それを自分が日々感じたり考えたりしていることと重ね合わせて考えてみたい。例えば誰もが誰か持っているはずの「何かをしたい」「何か意味のあることをしたい」「何か価値のあるものをつくりたい」という思いを、単に肯定するのでもなく、もちろん否定するのでもなく、ただそのような思いを普遍的?な人の営みの一部として捉え直すことによって、生き残った者たちは自分の立っている場所に目を向けることができる。というようなことを考える。そしてそのことによって、ようやく生活を始めようとすることができる。のかもしれない。「何か」に対する根拠のなさを『欠落』として、そしてその「何か」が意味付けされることなく、ただ別の「何か」と接続され続けるだけなのかもしれないという不確かさを『忘却』として、その、営みの入口と出口を見据えながら、それでも諦めることをしないで「何か」を続けようとすることができるのならば。



・そしてまた、この作品から「映像」について考える。この作品の中では、あるいは単に現実では、映像は不思議な存在(あるいは存在でもない)として、いつでも、出来事の、空間の周りに、貼りついたり、漂ったりしている。もうそのことからは逃れられないのかもしれないなぁということに一抹のセンチメンタルを感じることもどうなのかと思うのは、その「逃れる」という感覚がそもそも何なのか。というようなことなのか。「逃れる」と言ってしまえば、その立場からはこの演劇の「映像」に対する姿勢は少し残酷であるようにも思う。「カメラが回っていない場所」を、特別な場所として、場合によってはアジールのようなものとして捉えて、そしてその場所を何かの根拠とすることは、もうできないということなのか。どうなのか。「世界の全ての場所は撮影されている」と言ってみて、そのことを嘆いてみることが、あまりにも、もうきっと何十年も(あるいはそれ以上も)約束事のように繰り返されているのであろうことを、またはその面白くなさを充分に理解していても、やっぱり何か割り切れない気持ちが残るのであれば。



・「表現」を遥か飛び越えて、あるいは遥かに遡って、「ただの記録」「ただの記述」を求める気持ちは何なのかと思う。



・「25年をひとつに繋ぐために」(という言い方だったかどうかは覚えていない)全く何でもない生活用品を並べる行為は何なのか。そして「3月11日を跨いだ時間」の記述が、その全く何でもない生活用品と重ね合わされる行為も何だったのだろうかと考える。個人的な出来事、些末な出来事、記述される必要のない出来事、他の誰にも、自分にも、明らかにならなかったかもしれない出来事、あらゆる出来事の等価性のようなものが唯一の「物語」であるかもしれないようなこと。



・二度目に観に行ったときにはちょうどアフター・トークとして、宮沢章夫やついいちろうという人が話をしていて、基本的には数十分笑いっぱなしだったのだけれども、その中で宮沢章夫という人は震災直後にいかに「平常心でいること」を考えたかというようなことを(面白い話として)話していた。あるいはまた「普段ならば何でもないはずの発言が『不謹慎である』とされることに疑問を持った?こと」についても触れていた。そしてしかし、その姿勢はともすると地震原子力発電所の事故それ自体を「何でもないこと」として済ませてしまうような、そういういわゆるひとつのニヒリズムのような思考とも親和性が高かったりする/可能性もある/のだと思うのだけれども、宮沢章夫という人の場合(?)は、全くそういう方向とは違っているのだな、というようなことを考えられたことが個人的には面白かった。



・去年2010年のスチャダラパー20周年の日比谷野音のときに購入した『余談』という書籍の、スチャダラと宮沢章夫の対談のタイトルは『この「美しい世の中」を、我々の「悪ふざけ」でいかに脱臼させるかが大切です』というもので、この題名が示すそのこと、その思想というか、思考というか、考え方の特徴といったらいいのか、そういうことの大切さをあらためて思う。「美しい世の中」は、例えば「高校生の飲酒」を認めないだろう。あるいは容赦なく罰するのかもしれない。そしてところでそのときに「映像」はいかに機能するのか。「美しい世の中」を維持するために機能するのか。それとももしかすると悪ふざけのために機能するのか。どうなのか。考える。