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  映像研究

水曜日とか木曜日とか金曜日とかの日記(夏休み)

 
・7月13日の水曜日は夏休み。夏休みは本を読む。いつだって「夏の100冊」が目標(小説以外)。夏は背伸びをする季節。背伸びをしてわけがわからないなりに(ほぼ偶然)手に取ってしまった物があとから意味を成したり成さなかったりする。中学生にとってのWAVE。高校生にとってのシネ・ヴィヴァン。そして今は八王子図書館で背伸びをしている(高い棚の本を取るために/分厚い本を読み通すために)。あっという間に終わってしまうということがわかっているだけに切ないくらいに夏らしい気候。



・7月14日の木曜日は夏休み。夏休みは都内を歩く。朝から出かけて荻窪ささま書店。水道橋でちょっと良い(良すぎる)ランチを食べて「さかいや」へ。フィールド・ライフの新しい号を貰いつつ、約半年ぶりくらいに各種アウトドア用品を眺めていたら、劇的に山登りに行きたくなった。R君と合流。写真集が充実した古書店でずっと買うか迷っていたEmmet Gowinの写真集があってかなり迷う。唸りつつ眺める。



・一時解散して東京大学へ。福武ホールにて、宮台真司という人と大澤真幸という人の対談を聴きにいく。タイトルは『「3.11後の世界」を考える!』というものでメモを取ったりしつつ聴講。備忘録しておきたいことは色々とあるものの、それはまた別のかたちにしよう。しかし本当にいつでも/どこでも「共同体=コミュニティ」という言葉が話される。そしてその中で自分にとって「小さい政府」ということに対する考え方が変わってきていることも事実。



・その後再びR君と合流して下北沢にて飲食。沖縄料理を食しつつ、主に美術あるいは芸術を巡る色々なトピックスについて教えてもらう。色々な要素によって色々なスパンで色々な振り子が揺れたり戻ったりするなかで、また美術あるいは芸術についての自分の考えも変化する。現代的な美術あるいは芸術、そして現代的な思想、それぞれについて、その倫理的な側面について考えてみたい今日この頃。



・7月15日の金曜日は夏休み。家で読書することに限界を感じて(家のなかで熱中症になる可能性があるという話を聞いて恐ろしくなった・imacの頭頂部を触ったらフライパンみたいになっていて恐ろしくなった・「ペットボトル症候群」という言葉を知って…以下略)やはり図書館へ。図書館の「勉強するコーナー」で読書。その後ファミリー・レストラン的に使っているカフェにて今。



・読みたい本が次々に現れる夏。この夏は完全にカジュアルな解釈で現代思想のある部分について自由研究してみようと思って、手当たり次第に「入門書」的な本をパラパラしてみた結果、(現代的な思想の基本がわかりそうだから)フーコー→(フーコーのエッジなマインドの源流ぽいから)ニーチェ→(ニーチェをよりポジティヴかつおしゃれにアレンジしてそうだから)ドゥルーズ→(ドゥルーズの色々なテーマの元になっているらしいから)ベルクソン(いまここ)。



ベルクソンだ。つい最近まで「そんな人もいるなぁ」というくらいだったのが、今や自分にとって超重要人物だ。高校生のときの隣のクラスの新しく友達になった人みたいだ。とりあえず図書館で守永直幹という人の『未知なるものへの生成―ベルクソン生命哲学』という本を借りてみた。「交響曲としての世界」「解体しつつ創られるもの」「生命の蛇行する曲線をたどって」「絶対的な自由のために」「こわばるもの、しなやかなもの」「歓喜あるいは爆発的な生」「全自然的交響への接近」目次を読んだだけでもわくわくする。



・しかしそういえば自分はそもそもは「なぜ植物が成長しているのを見ると勇気づけられるか」とか考えていたのだった。あとある種類の(恐らくは「現代的」と言われるような)写真について考えていたのだった。それでその全然違うと思っていた問題のクロスするポイントが「いまここ」。変化し続ける芸術表現が、その必然として「人が集まることそれ自体」へ向かうのではないか?という興味もそのポイントのすぐ近くにある。夏の自由研究は夏休みが終わったら提出することになる。