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  映像研究

いま一番食い止めなくちゃいけない瀬戸際に立っている人はどこにいる

 
TBSラジオの『小島慶子キラキラ』という番組のpodcastをぼやっと聴いていて、あれ、という間にすっかり引き込まれてしまって、気がついたときには何とも言えない神妙な気持ちになっていた。そして自分も色々なことを考えた。番組では「原子力発電所」の現状についての考えから、または「原子力発電所」に対応する政治家に対する考えから、ニュースや報道に対する率直な気持ちについて話されていた。そして震災が起こる前の生活が、そもそもどのようなものだったのかについても話されていた。この社会には第二次大戦直後の混乱期と同じくらいのレベルの生活保護の受給者がいること。あるいは年間の自殺者はこの10年に渡って3万人以上いて、今年の5月は前年の5月から19.7%も増えたこと。そういうことを「おかしい」と思うこと。「社会が病気である」という表現が適当かどうかは個人的には疑問がありつつも、少なくとも「あるべき姿」からはかけ離れた状態であること。そのことを知って、考えることから、表現を始めたい。自分はその瀬戸際に立つことを、その際の向こう側に向かってしまうことを、想像しようとすることしかできないけれども、想像しようとすることしかできないなりに、それは、個人では絶対に取れないはずの責任を取ろうとした結果として、命を絶ってしまうということなのか。どうなのか。「責任」という言葉が、目の前の人に対して誠意を持って向かい合うという、本来の意味から完全に逸脱して不可解な目的のために使われるとき、それは心理的な暴力を生む永久機関のようなものになるのか。どうなのか。その暴力は「自己責任」と呼ばれたりして、人が他人に想像を働かせたり、その想像するなかで個人というものを越えた意識を持ったり、そこから人と人とが繋がり合ったりすることを阻む。あるいはまた、人が自由であると感じたり、その自由であると感じることから理想を大きく育てて創造性を発揮したりすることを難しくする。どうしたらよいのだろう?と自分のような人でも時々は考えたりしないこともない。困難を前にして「強くあること」や「強さを持つこと」が必要とされることもあるのだと思う。それでもいま自分が優先的に考えるのはむしろ「適切に人に頼ること」や「声を出して助けを求めること」だったりする。そういうことにもきっと練習は必要で、日々の意識も必要であると思う。「自己責任」とか「想定内」とかいう論理によって動いているチキンレースのようなものを、ちゃんと相対化して、「恐い」とか「嫌だ(理由を論理的に説明はできないけれども/すくなくとも何か嫌だ)」とか言うことを練習することが必要とされている。そしてそれは実はもう多分3年くらい前に(私見です)すっかりそのような雰囲気はできていて、多分少なくない人が(お洒落な人が、って言いたいけどちょっとはばかられる)その練習を始めている。会社帰りにOLがこっそりとゴスペルのレッスンに通うように(そういう連続ドラマあったね)、そういう練習はひっそりと始められている。その言葉は、街の、家の、あらゆる場所で、詩のように、歌のように、繰り返し発せられる、かもしれない。