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  映像研究

書くことについてとか。

 
・冷たい雨が降っているような降ってもいないような秋のようで冬のようでもある水曜日。定期的な肉体的労働(竹関係)によって普段使わない筋肉が少し鍛えられている気がしなくもない日々。かたち在る物を作ることの効用あるいは効能。そんな中本日は自宅でコンピュータと本棚を往復する系のワーク。しかし思っていた10%も進まず少し困った。というのもフェスティヴァルに少しだけ本を持っていこうと思っているのだけれども全くその方針が決まらないのだった。誰にも頼まれていないことを粛々と進めるということにもそれはそれで難しいときがある。結局放り出して外出。



・そうして夕方からは新宿ジュンク堂にてトーク・イベント。佐々木中という人と坂口恭平という人による『〈本〉と〈都市〉と〈革命〉をめぐる夜話』ということで、最近『切りとれ、あの祈る手を』を読み(2回)、あるいは一方『ゼロから始める都市型狩猟採集生活建築』も読み、それぞれの著書に関してそれぞれ違った部分でインスピレーションを受け同時に微妙に微妙な違和感もあったりしたところだったのだから、これはもう面白そうだと予約をしていたのだった。会場は満員御礼であっという間の2時間にメモを取ろうとしてノートを持っていたのだけれども全く使用せず。淡々と且つエキサイティングな、正直且つパフォーマティヴなトーク。自分としては『切りとれ、あの祈る手を』は「本」を「読む」ことについて中心的に書かれていると思ってたのだけれど、同時に「読む」ことは「書く」ことに繋がる、ということについても書かれていた本なのだった、ということを思い出させられるような内容。



・そしてその「書く」あるいは「書き換える」ということは当然広く「表現すること」と考えられるのであって、またその「表現すること」は、ほとんど「人の活動」と言えるものすべてを指すようなのだ。そしてそのように考えたときに「表現すること」は「継続すること」や「更新すること」というような性質を必ず含むものとするならば、(仮にそうでないものを想定したときに考えられる)「コンセプトを立ち上げてそこに具体的な題材を代入すれば『作品と呼ばれるもの』が出来るように思ってしまうシステム」のようなことを相対化することができるかもしれない、というのが自分にとっての当面意味のありそうな考察であって、また自分が考えていることを「継続する」「更新する」動機を確認することにもなるのだった。



・そんなことを考えつつせっかくなのでと誘ってみたSMDくんとともに中央ラインを下って国立へ。駅前の大衆的な酒場でMTMTのMT。しかも今日に限っては極めて本質的なMT。フェスティヴァルと言ってみても、あるいはキャンプとかパーティーとか言ってみても、とりあえずまるでただのレジャーのようであることが何故自分にとって、何か意味のあることだと考えてしまうのかという確認。それはやっぱり自分にとっての「書くこと」つまり「表現すること」のヴァリエーションなのかもしれない。そしてだから自分はそれを「ある実験」のようなことだと思っているのだけれども、しかしそう伝えた瞬間に何か損なわれてしまうようなこともあるような気もする、というような話。多分もう少し何か別のしっくりくることも話していたのだったけど、書いているうちに忘れた。だからそれでもなお覚えている限りの備忘録。