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  映像研究

・春が深まる。祝日だが朝から夕方まで業務だった。久しぶりに授業する。何も共有していない人たちの前で何かを話すことを思い出す。「久しぶりなので変なこと言うかもしれません」と前置きしながら。あっという間に時間は過ぎる。9:00から17:00まで。一旦帰宅して出張から帰る家族を車で迎えに行く。旅と仕事の話を聴きながら飲食することは楽しい。せっかくだからと冷蔵庫で冷やしていた、ヒトミワイナリー「バブリーテンダーキュヴェスチューベン2021」を開けるとあっという間に消えた。ワインと共に時間も消える。さまざまな連絡が飛び交いそれは現実の空間で会うことを目指す。叶う声も叶わない声がある。叶わない声はしかし未来の期待を生む。人と人が会うたびに発光するように感じる。発光が重なり春が深まる。

中心

・中心の点を想像する3月20日。それは春の中心か。いつでも本当は変化し続けている時間の中で、目に見える存在が次々に現れることが春の特異であるならば、その中心は3月20日かもしれない。

 

・3月20日を特別な日と思うのは、1995年の3月20日を点として微かにであれ記憶していることによる。「地下鉄サリン事件」があり、自分はその日に義務教育を終えた。そうしてそのことをふと思い出した2007年の3月20日に、オンラインでダイアリーを書くことを思いついた。それは一つの偶然だが、一方で3月20日という日付を特別な記号にしたいという意思もある。継続し、繰り返し確かめることで、そのしるしは、かたい、しかし実体のない、意識の中にある墓石のようになるかもしれない。

 

・墓石の前にいた。意識ではない現実の3月20日には、親戚が上京していて、家族とともに父の墓参りだった。彼岸でもある。10年近く経って「墓参り」が少し分かってきた。分からないことに立ち入ればまずは形式的なことを形式的に遂行するのみだが、次第に形式の中に自分の方法や思考が芽生える。もう少し経てばさらに分かりそうな気もしている。家や墓の意味について。

 

・その数時間前には、車で大学に行き、8年座っていたことになる研究室のデスクを片づけた。そのデスクに座って作業をすることは殆どなかったけれども、自分が座るためのデスクが存在していることの意味は大きかった。本をリュックに詰め、紙を捨て、引き出しの文房具を整理して、更になったそのデスクを写真に写した。そしてその場所にいる自分を写真に写した(セルフタイマー)。お世話になった方に挨拶した。

 

・もうこの空間に足を踏み入れることはないかもしれない。というかカードをピッとしないと入れないならば、基本的には入ることができない空間になる。かつての「学校」は時々立ち寄る場所であったが今は少し違うのか。批判でなくそのことを新鮮に考える。

 

・3月19日から20日に日付が変わる瞬間に巻き戻せば、友人たちと久しぶりにオンラインで話していた。5点が画面に現れて顔を見ながら子を育てる友人の日々の思考を興味深く聴く。友人たちと話をすることによって、自分が、変わり続けていることと、あり続けていることを、同時に確かめることができる。そしてその会話がまた繰り返される。会話が積み重ねられた先に、現実に会うならば、それはきっとパーティーのような場になるだろう。

 

・車で一日移動した。ピチカート・ワン『前夜』を大きな音で聴きながら、この3年の自分の感じがこの一枚のCDに圧縮されていると思う。あるいはこの3年とは、この車の空間とともに生きた3年だった。ソレントグリーンのカングーとピチカート・ワンの音楽によって生まれる空間は、自分を確かめ、癒し、未来を考えるために必要な空間だったと思う。偶然の結果であり、それを選んでいる。

 

・車に乗りながら目にした光景を何枚か写した。風景について、少しずつ書くことをはじめている。このような風景を写すならば、その写真は比較的小さい手のひらに乗るくらいの大きさでプリントしても良いのではないかと、ふと思った。

 

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会う春

・202303191102。都心に向かう電車を待つ。最寄りの駅のホームで書いても良い。

 

iPhoneのカレンダーに細かな予定を書き入れていたが、気がつくと3月の残りの日には何らかの予定が記されていた。月末には春の集中講座的な業務があり、それを越えればまた少し休むことができる。とはいえ、微妙に時間ややり方を調整しながらパズルのように考える必要がある。これが春だったかもしれない。

 

・予定のうちのいくつかは人と会うことで、会うことが久しぶりの人もいる。堰き止められていた水が流れ出すように、色々な対面の状況が生まれている。それはちょうど約3年のあいだ会うことをひかえてきたことにもよる。加えて自分の場合は、数年取り掛かっていた作業が終わり、時間的・心理的に解放されたことにもよる。人と会うことが生活の中に戻ってきた感じがある。人と会って話をするこことは、どんなふうなことだったかと考えていた。

 

・熊本現代美術館での、坂口恭平と千葉雅也の二人が話す映像を見る。一度はラジオのように声だけを聴いて。もう一度は夕食をしながら大きな画面で見る。人と人が、適切な緊張感を持ちながら、しかしリラックスして話す様子に力を貰う。同級生という感じも良い。年齢が異なっても豊かな関係が築けることとは別に、同級生の間にしか生まれないグルーヴのようなものもある。自分からすれば中学の目立つ先輩(少し恐い)の会話を聴くような楽しみもある。

 

・「メンテナンス」について話していたことが特に印象に残った。自分もまた生活の中にさまざまなメンテナンスを仕込んでいる。

 

・「つくる」こと、たとえば自分の場合であれば、行為としては書くことや撮ることがある。まだそこに直進せずに、しばらく自分の欲を探ってみたいという状態の春。ピークを目指す登山ではなく、裾野から別の裾野へゆっくりと移動し続ける山歩きをイメージしている。山菜を食べたいからかもしれない。

 

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