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  映像研究

台風がかすめる

・今年はじめて台風が近づいた記録。朝ざっと雨が降っていて家族と共にバスで往復することと駅前のコインパーキングに駐車することを天秤にかけて車で出かけた。思いの外はやく職場の最寄駅に着いたからエクセルシオールで少し自分の作業をする。僅かな隙間の時間は貴重。

 

・行き帰りの電車で『ライティングの哲学』を読んでいる。自分はmacbookのテキストエディットで出来るところまで進めて、ある段階に至ったと感じたらWordへ持っていって完成させる。少し前はメール、最近はLINEのkeepメモに素材の素材のような断片を書くこともある。テキストエディットからWordへ移行する「ある段階に至った」という感じは、考えてみると確かに面白い。

 

・ところで論文の期限がどう考えても「残り一年」という感じで見えてきて、焦り、震え、しかし「泣いても笑っても」という感じで、期限が切られることは良い。この夏も引き続きどこまでも自分の作業のために時間を使いたい。

 

・ベランダのミニトマトの第二弾が色づく。

ぬるい

・202107251801。今日の作業を閉じる前にもう少しだけ、と思いながら中断してこうして書いている。短い論文の序論部分の荒書きが終わった。感触としては作業全体の3~5%。これを10%まで持っていけないか。一般的には国民的行事に伴う四連休の最終日だった。自分はちょうどワクチン接種後の休養期間四日間の最終日。業務の授業がない一週間の最終日。一週間授業をすれば再び夏休みになる。とはいえ貴重なこの期間の終わりを「・・・」という気持ちで迎えてもいる。

 

・朝は快適な作業をする部屋も昼からは熱帯感が増し夕方にはソフトなサウナのようになる。それは大袈裟だった。体感的には体温と同じなのではないか。それを「ぬるい」と表現する。身体の内と外の温度が近づくということは、内と外の境界が曖昧になることとも考えられる。輪郭が不確である状態。存在が確定できない。転じて不充分であることを「ぬるい」と言うのは何故かと考えて、それは、当の表現や主張の輪郭=存在が明らかでないことに依るのではないかと考えた。考えた、と言って、それほど真剣に考えているわけではない。モノクロームの写真の階調が少ないことを「眠い」と表現することは面白い。

 

・「これは〇〇を擁護するものではありません」と但し書きがされているのを読むと、これは意地の悪い指摘であるかもしれないけれども、それが「これは〇〇を擁護するもの」であることが示唆されている、と感じる。言葉は、文章は、難しい。「エクスキューズ」が反転した意味のタグになっている。あるいはその機能を理解しつつも、やむを得ず、あるいは積極的に、表現や主張を曖昧にするために用いられている。以上の指摘はしかし自分の言葉や文章を点検する意図で書いている。という、これもまたエクスキューズだろうか。

 

・自分が文章を書くときには、一切の「ぬるさ」を排した書き方を心がける。言葉を選ぶときにも、研ぐときにも。

 

・家のすぐ裏を自転車が走り去ったらしい。昨日は男子。今日は女子。積極的に拒否したつもりもないが観にいくことはなかった。Youtubeには既にその様子がアップロードされていたから少しだけ見た。自分の知っている風景(中央図書館の前の道)に大勢のスマートフォンをかざした人びとが存在する映像。それを見る。

 

・昨日本屋で買い求めた『ブルータスカーサ』、これはこれで2021年の都市生活者の欲望の結晶という感じの写真が迫り来る。山や湖の畔に身を置きたいと願う。『暮しの手帖』の益子特集も良かった。写真を通じて自然=生命を知覚し、それとひとつになろうとする心の動きについてならば、それを考えて、書くことで解消されることも、部分的にであれ、あるかもしれない。

 

・中断。

回復、回想

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・土曜日。7月の終わりの夏らしい夏の日に。熱は完全に下がった。副反応からの回復。「まだ少し倦怠感が」という便利な文句。いずれにせよ今日は自分の作業をするつもりでいたが業務の準備が必要になり(というか忘れたふりをしていた)粛々と進める。課題づくり。資料集め。電話面談。LINEでの共有など。昼食にはベランダバジルソースでペンネを。15時くらいにひと段落。

 

・そういえば西田哲学会の講演会というものがオンラインで見られたのだったと気づいたのはもうかなり進んだ時点だった。後半少し視聴できた。

 

・夕方から家族と買い物と用事を含めたドライブ。家族は郵便局へ。自分は画材屋に貼りパネ(のりピタ?)を買いに。画材屋の店員の方が貼りパネを探す自分に一瞬何か含みのあるリアクションをしたのは変な総柄のシャツを着ていたからだったのか。あるいはもしかしたらどこかで会ったことのある人だったのではないか。解決できない微妙な感触についてのメモ。

 

・書店にてレジャーとして『ブルータスカーサ』『暮しの手帖』を購入。またもう一つのレジャーとして大人の駄菓子屋的な酒屋のワイナリー的なコーナーにてワインを吟味。熟考の結果、蟹のラベルがかわいかった「くらむぼん甲州」という物を選ぶ。キャプション(と言うのか)の「発酵時のガスが残っていて」「ほのかな塩味」などに惹かれる。美味しかった。

 

・夕方から夜に変わる聖蹟桜ヶ丘はほどほどに賑わっていて、それを任意のフレームで切り出したならば、マスクをしていることを除いては、今が緊急事態宣言下であることも忘れる。しかし雰囲気の中には確かに少し憂鬱を感じる。雰囲気とは何か。雰囲気もまた認識できる何かの集合であるはずなのだけれども。たとえば家電量販店のテレビで巨大に高解像度で放送されるスポーツ中継は誰も見ていない。それは平時であってもあり得る光景だけれども、何か少し不自然な感じがする。店内で消灯された喫茶コーナー。手書きの張り紙。虎ロープ。その断片を集めてもしかし雰囲気には届かない。中断して。

 

・そのこととは別に自分は。大型のショッピングセンターには、小さな子供のいる家族のサークルも、老齢の単独の方のゆったりした動きも、小中学生同士の5人や6人の跳ねるような騒がしさも、20歳前後くらいの密やかな2人も、別々に、しかし同じ場所に、存在している。そのそれぞれの歩き方や集まり方や視線の向き合い方などは、何事かを表現しているように感じられもする。そう受け取ることもできる。それを類型化するのではなく受け取ろうとする。している。自分が、記憶や空想を経由して、別の人に乗り移ってみることもある。見ることを通して。別の関係の中にいる。

 

・実際の自分は過去に、他者との関係の中にいたこともあれば、その関係のいずれからも排除されているような気持ちで、圧倒されるような気持ちで、呆れるような気持ちで、微かな羨む気持ちを抑圧して、人びとを眺めていたこともあったのではないか。その眺めは現在の「この思考」とは異なる。駅前のショッピングセンターの遥か外へ向かってもよかった。いつか自分は再びその過去の眺めと同じ=違う場所に立つのだろうか。そのように考えたりもする。

 

・このようなことを考えるのは、夏の夕暮れがもっともふさわしいように思う。夏の夕暮れが思考を強いることもある。たとえば、あるいは、具体的な、祭りの記憶、誕生日。